家庭のこと、考えよう
伊藤隆二先生
「親は子どもに何をすべきなのか」を考えて数冊の本を読んでいました。その時、ふと伊藤隆二先生を思い出し本棚を探しました。「子どもへの最良の贈りものとは--父親の役割を問う」(樹心社)を取り出してもう一度読み出しました。やはり教えられるところいっぱいで、今回はこの本から分かち合いたいと思います。
生きがいを持てない青年の手紙に対して先生が返事を書かれました。そこには、
人は自分の「生きる目標」を自分で決めることはできないと、わたしは思っています。
「子どもへの最良の贈りものとは--父親の役割を問う」(樹心社)
に始まり、人の誕生についてこう書いておられます。
「赤ん坊が生まれた」「赤ちゃんができた」と言いますが、英語では the baby was born と表現することはあなたもご存知でしょう。英語だけでなく、多くのヨーロッパ語はみな、そのように「受け身形」になっています。つまり、誕生が「人間の力を超えたもの」の意志によっていることを端的に言い表しているということです。(p9)
「子どもへの最良の贈りものとは--父親の役割を問う」(樹心社)
と。
多くの青年が生きる目標を持てないと言います。それは子どもが夢を持てない時代になったからだと考えられるのですが、確かに子どもらしい夢や希望を聞けない時代になってきたような気がします。
そうしたことを全て社会のせいにしやすのですが、果たして「家庭」には問題は無いでしょうか?
家庭の機能
家庭の機能には二つあるといいます。
一つは子どもを保護する機能、もう一つが子どもがやがて独り立ちするための基礎・基本を培う機能です。(p18)
「子どもへの最良の贈りものとは--父親の役割を問う」(樹心社)
一つ目は多くの場合実行されているように思えますが、二つ目がどうでしょうか?
子どもが食べる、排泄する、着る、体を洗う、健康を管理する、といった身辺の自立をはじめ、礼儀作法、家事手伝い、道徳についての学習、隣人へのボランティア活動などを可能にするのは親の務めです。
「子どもへの最良の贈りものとは--父親の役割を問う」(樹心社)
さらにその上で、それぞれの事情にあった知識や技術を授け、手ほどきしていくのです。
昔は家業を継ぐということも多く、農家なら農業に必要なことを教えられて、実際に幼い時から手伝いをしながら学んできたものです。商売をしている家庭では店先に立って手伝いし、お金の勘定も素早くできるようになったものです。卵を割れないように新聞紙に包むことや、豆腐を崩れないように容器に入れたりすることを覚えたのです。
しかし、そういう家業が少なくなり、子どもの自立のためにこういう知識や実践をする場面が減ってしまいました。多くが学校で学ぶことになっています。
父親の役割
父親の役割について伊藤隆二先生は、
私は父親の役割は子どもに「もっと勉強せよ」と高圧的に要求することにあるのではなく。子どもがあくまでも主体的に問題意識をもって、みずから学び、問題を解決しようとする雰囲気をつくることにある、と思っています。それは、一言で言えば知的刺激を与え、共に研究しよう、学習しようという態度を示すことです。(p18)
「子どもへの最良の贈りものとは--父親の役割を問う」(樹心社)
と言っておられます。
私は自分を振り返って(私はどうだっただろうか?)と考えさせられました。
ちょっと思い出話になりますが、3人の子が生まれたとき、それぞれにとても嬉しかったですし、感動しました。「目の中に入れても痛くない」というのが本当にわかりました。
その後、3人が成長していくに連れ、できるだけ子ども達と接する時間を持とうと努力しました。あちこち公園を探して遊びに行きました。また、近所の田んぼや川、を散歩して、カエルや昆虫を見に行きました。
懐かしい万博公園
万博公園はお金のない私たちにはとてもありがたい公園でした。安く入れるばかりか広大な土地、森も川も池もあっていくらでも遊べます。2月には梅林で梅の香りを楽しみ、春は菜の花の丘(秋はそこがコスモスの丘になります、ポピーの丘になるときもありました)で楽しみ、お弁当を広げます。今、思いだしても懐かしく最高の思い出です。子ども達に何かを教えようとしたわけではなく、ただ一緒に自然を楽しみました。
懐かしい摂津峡
摂津峡というきれいな渓谷(自転車で行ける距離にありましたので)も私たちの遊び場でした。しかもタダです。川の水の冷たさ、捕まえられないけれど魚を追い回す楽しさを味わいました。ここでも何も教えていないように思います。
買い物にもよく行きました。3人を自転車に乗せて、レジ袋をハンドルにかけて走る4人乗りの姿を自分では見たことがないですから、どんな変な格好だったかわかりませんが、これも楽しい思い出です。今、こんな事をしたらおまわりさんに怒られてしまうでしょうね。
いったい私は子ども達に何を教えてきたのでしょう? ただ、自分が子ども達と楽しく過ごすことを喜んでいただけのような気がします。
寛げる家庭
先生は家庭・夫婦についてこう言われています。
子どもにとって家庭が寛げるところであれば、たとえ外で辛い思いをしたとしても、その子どものこころは芯から癒され、安らぎ、そして明日への希望が湧いてくるでしょう。
「子どもへの最良の贈りものとは--父親の役割を問う」(樹心社)
家庭が寛げるところである、もう一つの必須条件は、両親が(そして家族全員が)仲睦まじいということです。特に大事なのは両親が互いに信頼し、尊敬し合っていることでしょう。(p27)
これは簡単なようで、簡単でないのかも知れません。
私にとって家庭は寛げるところです。ただ最近は疲れ切って、横になっていることが多くて家族には申し訳ないのですが。
子ども達が小さかった時、つまり私も若かった時、よく笑っていました。子ども達の仕草も、言葉も楽しかったからです。
東京に引っ越してきて、マンションのお隣さんから「いつも笑い声が聞こえますね」と言われました。意識してみると確かにしょっちゅう笑い声を上げていました。どうやらそれがお隣さんにうるさかったのでしょうね。でも、笑い声を押し殺すのも難しいものです。(笑)
尊敬し合う夫婦
次に私たち夫婦は尊敬し合っているかどうかも考えてみました。が、よくわからないです。私は妻を尊敬していますが、妻が私のことを尊敬しているかわからないですね。聞いたこともないです。いや聞きたくないですね。恐いから。(笑)
でも、それでいいんじゃないかな。
先生はこの話にこう続けておられます。
あなたが父親として子ども達を下に見ているだけではなく、妻をも自分に従うもの、とみなしているならば、あなたの家庭は、表面的には波風が立っていないとしても、子どもたちは、自分は二重に虐げられている、という不快な気分で過ごさざるを得ないところだ、と思っているに違いありません。そして、その不快な気分が募っていけば、やがて子どもの人格がゆがんでいくのは必至です。(p28)
「子どもへの最良の贈りものとは--父親の役割を問う」(樹心社)
と。
人を大事にするというのは学校でも教えていることで、知識として子ども達の頭には入っていると思います。しかし、現実味を帯びて実体験としてどこで学ぶのでしょう。もちろん学校でも学ぶのですが、家庭で学ぶのです。そして、教会ですね。教会は家族のようなものです。
教会は寛げるところ、互いに尊敬し合うところですね。