通じ合う喜び
声の出なかった生徒
教師時代にクラスの一致を考えてしたことのひとつに、朝の10分の学活で歌を歌うことがあります。というのは一年間の講師時代に受け持った養護学級(今の支援学級)でいまいち元気が無かった生徒達が、歌を歌うことで段々元気が出たことを経験したからです。口を開く、声を出す、笑うということがとても良いことだとその時に感じていました。
この養護学級に入ったとき、一人の中学3年生の女の子が全くしゃべりませんでした。先生方に聞くと「あの子はしゃべることができない」と言われました。ニコッとはしてくれますが、全く言葉がありません。知的な年齢もわからないということでした。算数はできないし、文字も書けません。何から教えることができるのか頭を抱えました。粘土で団子を作ると喜んで幾つもつくってくれました。そこで、粘土遊びをしながら話をしてみました。やはりニコッと笑ってくれますが言葉がありません。
声を出せる喜び
紙切れを私がフーと吹くと、また笑ってくれました。そこで、彼女にも吹かせてみましたが、口をとがらせるものの、息が出ていません。何度も私がフーと吹くのを見せながらまねをさせました。何度も何度も繰り返していると遂に彼女もフーと息を出しました。そこで、私が「うー」と言ってみると彼女も真似てくれましたが、まだフーと息を出すだけでした。でも遂に「うー」と声が出ました。すると何度も「うー」と言ってくれました。
続いて「ハイ」と私が言ってみるとこれも真似てくれましたが「アイ」でした。でもこれでいい!と思って、職員室の先生方のところに連れて行って、「ハイ」を言ってもらいました。先生方から「Aさん」と呼んでもらうと彼女は「アイ」と答えました。拍手喝采でした。
それからの彼女は良い笑顔で度々「アイ」と言ってくれました。声に出せるというのは嬉しいものなのでしょう。
齋藤孝先生の本
先日買った
「声に出して読みたい新約聖書」(齊當孝著 草思社文庫)
P13-15 にとても良いことが書いてありましたので、引用させていただきます。
言葉の達人イエスの"魂の叫び”
「声に出して読みたい新約聖書」(齊當孝著 草思社文庫)
イエスのコメント力
私は古今東西の言葉を渉猟(しょうりょう)して選びだす作業をずっとつづけてきましたが、そのなかでもイエスの言葉には格別の力があると感じます。その力は一つひとつがことわざになるような(実際になっている)言葉にあふれています。
こうした力強い言葉を発する人が現代にいたら、即座に人の気持ちを惹きつけるだろうと思います。私はテレビの情報番組でコメンテーターをしていることもあって、よけいにそのように感じます。
コメンテーターは事件や出来事について短くて印象に残る言葉で語らなければならない。テレビ出演に慣れていないと、話が長くなったり詳しくなりすぎたりして、視聴者の心に残らないことがある。一言で心に刻まれるようなコメントができるのがすぐれたコメンテーター。それはたんに短いだけでなく、事の本質をしっかりとらえる眼と、短い言葉に凝縮して伝える力とが求められます。
洞察力と言葉の力の両方があってはじめてコメント力が生まれます。
イエスの洞察力と言葉の力は、神の教え、神の存在というものを前提にしていますから、私たちがふだん耳にするコメントとは世界が異なりますが、人の心を惹きつける点では共通のものがあります。
聖書というかたちでイエスの言葉が残っているのは幸運です。のちの人たちによって脚色され劇的に構成されたという見立てもできますが、手が加えられていようがいまいが、今もなお生命力を失わない言葉であることは特筆すべきです。
生命力にあふれる言葉を残したイエスは、おそらく聖書に書きしるされているよりもずっと多くの言葉を使い、表情、身体、気迫、声音などが相まって、その肉声は非常に強い喚起力を持っていたと思います。
ミュージシャンはライブを非常に大事にします。ライブでしか伝えられない「魂の叫び」があるからです。演劇もそうです。生の空間でなければ言葉の価値が本当にはわからない。芝居をDVDで観ると、映像にもかかわらず、相当に力が落ちてしまう。ましてや文章化すると、言葉の持つ身体性、肉体性が抜け落ちてしまってさらに弱くなる。
ところが新約聖書という書籍を読み進めていくと、イエスの言葉がどんどん迫ってくる。それは小説家が創作した言葉ではなく、実際に語られた「魂の叫び」です。もしその場に自分がいたなら、心を持っていかれるような感覚を覚えるのではないかと想像します。
齋藤孝先生ならではの文章だと感激しました。同時に、私がどうしてこれほどまでに聖書に惹かれるのかもわかった気がしました。
イエスは神の言葉
ヨハネの福音書にはイエス・キリストが神の言葉そのものであることが書かれています。言葉とは人格を表しますから、イエス・キリストは神としての人格をお持ちだということで、神そのものであるということです。
イエス・キリストが語られると地球ができ、宇宙も、光もでき、動物も人間もできたのです。
そして、2000年前にこの地上に人間の姿で生まれ、人間として成長されましたがその本質は神でした。ですから、イエスが病気の人に「癒されよ」と言われると癒され、嵐に「静まれ」と言われると嵐は静まりました。 イエスが語られる言葉はとても力があったと言うことです。
権威のある方が語ると部下はその通りにします。だからといってその言葉が全て美しいわけではありません。汚い言葉も権威を帯びると無理やりにでも人は動かされます。
しかし、イエスの言葉は美しく、弱い人には優しく、しかし強い言葉でした。
心の声を聴く
言葉は人間にとってとても大事なものです。あのAさんが「アイ」と言えるようになっただけでとても明るくなったのは私達とコミュニケーションが取れるようになったことを感じて喜びが溢れたのではないでしょうか。
子どもが徐々に言葉を覚え、語彙数が増え、泣いて訴えるだけから、自分の思いや気持ちを言葉で伝えるようになります。とは言え、気持ちを全て言い表すだけの言葉を持っていませんからフラストレーションを感じることが多々あります。そのため怒ったり、叩いたり、泣いたり、すねたりします。それが言葉の代わりなんでしょうね。
しかし、そういう子達だからこそ、こちらが聴こうとすると限られた言葉ででも一生懸命語ってくれるのです。そして、その子どもの言葉と雰囲気、表情を読み取ってその子の言いたいこと、気持ちを理解していくのです。
神との会話「祈り」
私はそこに祈りも似ていることを感じるのです。私達の限られた言葉、言葉にならない思いなどを神様は全部読み取ってくださるのです。なぜかというと神様は私達に寄り添ってしっかり聴いていてくださるからです。
親は子どもの願いを聞いたからと言って必ずしも全て子どもの願い通りにはしません。その子にとって悪い事、まだ早すぎると思ったときには、願ったものを与えないものです。祈りも似ていて、私達が祈り願ったからといってそれを必ずかなえるお方でもないのです。
しかし、親は子どもが願わなかったけれども必要と感じたものは与えたりします。同じく神様も私達の願い以上に大事なものは与えてくださいます。
クリスチャンの多くが「主の祈り」というのを祈りますが、ここには全てが含まれていると思います。
主の祈り
天にましますわれらの父よ。
願わくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
われらの日用の糧を
今日も与えたまえ。
われらに罪を犯すものを、
われらがゆるすごとく、
われらの罪をもゆるしたまえ。
われらをこころみにあわせず、
悪より救いいだしたまえ。
国と力と栄えとは、
限りなくなんじのものなればなり。
アーメン