不安から不登校、でも!

子育て通信

さみしい3学期終わり

  3学期も終わろうとしています。
  教師時代(40年以上前のこととなってしまいました)、この時期は忙しかったです。しかし、クラスがまとまってきていて、担任の私も生徒たちも「別れたくない」という気持ちを持ちながら新学期へと向かうのです。
  最初に担任をしたクラスの思い出は入学式に出会ったあどけない生徒たちに始まりました。小学校を卒業し、中学生になったのですが、制服が大きく、袖からちょっとだけ見える手がかわいらしかったです。
  それが3月にもなると制服がぴったりになっているのです。「大きくなったなあ!」というか「しっかりしたなあ!」という感じでした。そういうのと同じような感覚が、ここ新中野教会の子どもセンターの卒園式でも感じます。

不安があった

  私の勤めた中学校は、1学年11クラス(一クラス44、45人)あったので、4月に新しいクラスになると、同じクラスの生徒と一緒になれるのは4、5人だけです。みんなの不安そうな顔が見えます。お別れ間際に「このクラスがいい!」と言ってくれると嬉しかったですが、私も次のクラスのことにやや不安が募ってきます。「どんな生徒たちの担任になるのだろう?」と、まだ新米教師だった私は、やはり不安の方が大きかったです。
  私が不安である以上に生徒たちも不安だっただろうと思います。HSCだった私は子どもの頃、クラスが変わる、中学校に上がる、高校に上がるという時には不安がいっぱいでした。

  「不安」に関して、朝日新聞の記事にこんな記事がありました。

 不登校の一因には、「不安症(不安障がい)」もあるといわれる。文部科学省の調査では、不登校の小・中学生の2割以上に「不安・抑うつの相談があった」という。子どもたちは何に不安を感じているのか。不安の問題の予防教育に取り組む公認心理師の浦尾悠子さんに聞いた。
 ■一人ひとりの違い尊重へ変革を
 不安は、必要以上に強かったり、非常に長く続いたりすると日常生活に支障が出て、不安症と診断されることがあります。
 何に対して不安を感じるかは人によって様々ですが、不登校の子どもによくみられるのは対人不安です。友達にどう思われているか不安、先生に怒られるのが怖い、そもそも教室など集団の場にいるのが怖い、といった話をよく聞きます。本人の気質や特性、発達段階、人間関係、生活環境など、様々な要因が複雑に絡み合っていることが多いです。

 子どもの不安の問題は、本人の気質や特性と、本人を取り巻く環境とのミスマッチによって生じることが多いので、表面に見えている症状だけでなく、背景にある要因にも目を向けることが重要です。
 日本の学校は一般的に、同調圧力の高い空間です。一斉指導が基本なので、多くの場面で集団への適応が求められる。自分は周りになじめているか、迷惑をかけていないか、嫌われていないか、ひとりぼっちにならないかと不安になりやすい環境です。学校がもっと、一人ひとりの違いを尊重し合う空間になれば、不安の問題は減るのではないかと思います。
 不安の予防教育に取り組んでいます。「勇者の旅」と名付けた、認知行動療法の考え方をベースに作ったプログラムです。不安とはどういう感情かを学び、状況を客観視することで不安とうまく付き合う力を身につける狙いがあります。
 年8時間以上を使うプログラムですが、延べ100以上の小・中学校で採り入れてもらってきました。子どもたちからは「不安を小さくできるようになった」という声が寄せられています。
 ただ、いくら子どもたちの心構えが変わったとしても、環境そのものが変わらなければ根本的な解決にはなりません。教職員数を増やして一人ひとりのニーズに丁寧に対応できるような態勢を整えるなど、学校の変革が求められています。(聞き手・狩野浩平)
(インクルーシブ教育@japan 不登校の背景に:3)
強い不安感
2025年1月26日

弟の不登校

  私が高校3年生の時、中学3年生だった弟が不登校になりました。まだ「不登校」という言葉が無く、「登校拒否」という言葉さえ聞きなれない時代でした。何しろ周りに学校に行けない生徒が見当たらない時代でした。
  弟が学校に行けなくなった理由はよくわかりません。バスケ部の部長をして、運動神経も良く、頭の良い弟はクラスでも部活でも人気がありました(私はしょっちゅう病気をして高熱を出していて、運動もダメで、成績もたいしたことありませんでしたから、父は弟をすごくかわいがっていました)。
  こんな元気いっぱいだった弟が急に変わってしまいました。教職員のストライキがやたらなされた時代で、部活動が中止になってしまいました。思えばその時から弟は学校に行けなくなりました。ある日、弟は授業で教科書を読むように言われたのですが、立ち上がると急に不安になって読めずに座り込んだらしいです。そこから休みだしました。そしてかなりの日数休み、自殺を考えたことも3度ほどあったと日記に書いてありました。
  兄弟げんかばかりしていた私たち兄弟でしたが、全くけんかもできなくなりました。「少し休めば行くようになるだろう」と思っていましたが、全くその気配が無く、友達が度々心配して訪ねて来てくれましたが、それでも行けませんでした。
  母は担任と色々相談し、あちこちの病院の精神科にも行き「対人恐怖症」や「赤面恐怖症」と名付けられたりしましたが、全く変化がありませんでした。

高校にも行けない

  私の大学受験の時、私は失明しかけ、弟は高校受験。弟はあんなに学校を休んでいたのにさすが頭が良かったみたいで一発で合格してしまいました。
  私の目は母の祈りで癒され失明せずに済み、私はそれをきっかけに教会に行くようになりました。第一希望の大学はダメでしたが、第二希望の大学に入れました。そして教会にも毎週通いました。
  弟も高校生になり、高校に行き始めました。ホッとしたのもつかの間、数日間学校に行ったと思ったら、もう行けなくなっていました。
  弟は対人恐怖などの人が行っているという「道場」を東京に見つけ、一人でそこに行き1カ月間頑張りました。弟が帰ってくる日、私は京都駅まで迎えに行きました(我が家は京都と大阪の中間にある高槻市にありました)。「弟は治って帰ってきた」と思い込んで迎えに行ったのですが、「良くなったか?」と聞いた私に「かえって悪くなった」と言いました。私は何も言えず家まで帰ってきました。

不登校から大学院

  しかし、弟は東京で知ったキリスト教会が神戸のおじの通っている教会と同じだったので、弟は日曜日にその神戸の教会に行きました(私の通っていた教会とはだいぶ雰囲気が違いました)。
  すると、そこで弟は「対人恐怖症」が治ってしまったのです。弟はクリスチャンになったのですが、私がクリスチャンになった時にも強烈に反対した父が弟までクリスチャンになったために激怒し、弟を勘当してしまいました。
  弟は家を出ておじの知り合いの塗装業者のところで住み込みで働き、英語や聖書の勉強をして、数年後、聖書をもっと学びたいという思いをもってイスラエルに行き、イスラエルの大学に入るために予備校のようなところで学び、キブツというところで住み込みで果樹園の仕事をしたそうです。そして大学にも合格した弟は、英語、ヘブル語(イスラエルの言葉で旧約聖書の言語)ができるようになり、ユダヤ思想史を学びたくて、続いてアメリカで大学院にまで行ってしまいました。

不安から平安

  不登校だった弟がこんな人生を歩むなんて誰が想像したでしょうか? 不安でいっぱいで死を考えた弟がこんなにも変わった姿を見たのは、あの勘当された日から30年くらい経っていました。

  晩年の父は母の祈りのおかげでかなり優しい人に変わっていました。遂に弟は実家に家族を連れて挨拶に戻ることができました。
  父の笑顔は聖書の「放蕩息子の父親」を思わせるような感じでした。
  父は二人の息子が共にキリスト教の働きをするとは思ってもみなかったでしょうが、亡くなる4日前に遂に自分もクリスチャンになりました。
  父も私たち息子のことを思って不安だったのでしょう。しかし、イエス・キリストを知って平安をいただいて天に帰りました。

子育て通信

Posted by shinnakano