宣教のことばの愚かさ
2023.2.19礼拝説教
テーマ:救いを得させる神の力
説教題:「宣教のことばの愚かさ」
テキスト:Ⅰコリント1:18~25
1:18 十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。
Ⅰコリント1:18~25
1:19 「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、悟りある者の悟りを消し去る」と書いてあるからです。
1:20 知恵ある者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の論客はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。
1:21 神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。
1:22 ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。
1:23 しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、
1:24 ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。
1:25 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
十字架のことば
この手紙の著者パウロは、コリント教会の様々な問題を案じて手紙を送った。特に大きな問題となったのは、分派の問題だった(Ⅰコリ1:12 あなたがたはそれぞれ、「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケファに」「私はキリストに」と言っているとのことです。)。こうなったのも、「十字架のことば」を軽んじたことが原因であるとパウロは指摘する。そして、自分が他者よりも優れていると誇ることはおかしい。人ではなく、まずキリストが崇められなくてはいけない、と。
パウロやアポロ、ペテロは皆有能な指導者であるが、このうちの誰も自分に属して欲しいなどと考えている者はいない。彼らはただ、十字架のことば、すなわち福音を宣べ伝えただけである。
パウロは、元々ユダヤ人のエリートであった。ローマの市民権を持ち、ガマリエルという当時有名な教師から教育を受け、ユダヤ教に長けていた。
パウロの回心については以前詳しくお話ししたが、彼は人間的な知恵にも優れていた。しかし、パウロが回心した時、この世の知恵は愚かであると思わされた。ユダヤ人はしるし(奇跡)を求め、ギリシャ人は哲学の影響
から知恵を追求する傾向にある。が、パウロは、ユダヤ人にとってのつまずきであり、異邦人にとって愚かなキリストをひたすら宣べ伝えた。
宣教のことばの愚かさ
宣教のことば、つまり福音は、神を信じない者にとって愚かであり、それを信じている私たちも愚か者と思われているかもしれない。
パウロは賢い優秀な人物だったが、その全てを犠牲にしてキリストを宣べ伝
えた。だがそれゆえに、多くの困難を経験した。
11:23 彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうです。労苦したことはずっと多く、牢に入れられたこともずっと多く、むち打たれたことははるかに多く、死に直面したこともたびたびありました。
Ⅱコリント11商
11:24 ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、
11:25 ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、一昼夜、海上を漂ったこともあります。
11:26 何度も旅をし、川の難、盗賊の難、同胞から受ける難、異邦人から受ける難、町での難、荒野での難、海上の難、偽兄弟による難にあい、
11:27 労し苦しみ、たびたび眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さの中に裸でいたこともありました。
こんな苦しい目に遭うならやめてしまえばいいのにと、クリスチャンでなければ思われるだろう。そこまでして何と愚かな人だろう、と。だが、パウロはやめることができなかった。彼は同じⅠコリントでこのように言っている。
私が福音を宣べ伝えても、私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないのです。福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです。 「そうせずにはいられない」と言うくらいに、彼は神様の迫りによって福音を語らずにはいられなかった。
Ⅰコリント 9:16
救いを得させる神の力
神を信じない者にとって愚かな十字架のことば=福音とは何か。Ⅰコリントの15章にこのように書かれている。
15:1 兄弟たち。私があなたがたに宣べ伝えた福音を、改めて知らせます。あなたがたはその福音を受け入れ、その福音によって立っているのです。
Ⅰコリントの15章
15:2 私がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがたがしっかり覚えているなら、この福音によって救われます。そうでなければ、あなたがたが信じたことは無駄になってしまいます。
15:3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
15:4 また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、
15:5 また、ケファ(ペテロ)に現れ、それから十二弟子に現れたことです。
福音は信じない者にとって何の益ももたらさない。どんなに語られても、右から左へと頭の中をすり抜けていくのだろう。しかし、信じる者にとって福音は「救いを得させる神の力」なのである。そして、信じない者もいつの日かそのような救いの力を得られる時を神は待っておられる。
結び
私たちが十字架のことばを語る時、それが通じないことは多くあるだろう。二千年も前の十字架の出来事が、自分と何の関わりがあるのかと思う人もいる。しかし、あきらめることなくキリストを語ろう。キリストにあって、あえて愚かな者となろう。それが、信じる者にとって神の力となるのだから。
Posted by shinnakano
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