わたしはいのちのパンです。
2021/8/15 礼拝説教
【テーマ】永遠のいのち
【説教題】「わたしはいのちのパンです。」
【テキスト】ヨハネ6:47〜50
6:47 まことに、まことに、あなたがたに言います。信じる者は永遠のいのちを持っています。
【新改訳2017】ヨハネ6:47〜50
6:48 わたしはいのちのパンです。
6:49 あなたがたの先祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。
6:50 しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがありません。
五千人の給食
今回のテキストの前に、五千人の給食の話がある。(ヨハネ6:1〜14、マタイ14:13〜21、マルコ6:30〜44、ルカ9:10〜17)この奇蹟が起こったのは、過越の祭が近づいている時だった。(「ユダヤ人の祭りである過越が近づいていた。」ヨハネ6:4)この給食の奇蹟が示す「しるし」は、イエスの受難が過越の祭を背景に記されていることと合わせて、過越の祭と深いかかわりを持っている。
ユダヤ人にとって、この過越の祭は出エジプトを記念する大事な祭りである。
モーセの時代にエジプトを出る際、それに反対するエジプト人の初子は主によって殺されてしまった。が、ユダヤ人は、家の入り口の柱と鴨居に子羊の血を塗り、それを印にすることで主は過ぎ越され、彼らの初子は助かった。その出来事を記念して、過越の祭の時、一歳の雄の子羊をほふり、その血を入り口の柱と鴨居に塗り、肉は焼き肉にし、過越の子羊として食べることが習わしとなっている。
かつて、バプテスマのヨハネはイエスを見て、このように言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」(ヨハネ1:29)イエスは、私たちの罪を取り除くために、ご自身をささげて十字架にかかられた。このイエスこそ、「過越の子羊」なのである。
イエスは、この「しるし」を通して、イエスご自身が「天から下って来た生けるパン」であることを啓示し、それがご自身の死と関係があることを示唆して、「わたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です」(ヨハネ6:51)と言われた。
荒野のマナ
モーセに率いられ、エジプトを脱出したユダヤ人たちは、40年間荒野をさまよった。
民は、食べる物がなくモーセにつぶやいた。その際、与えられた食物が「マナ」(出16:13〜36、民数記11:6〜9)だった。マナは、白色で小さな球形をしていて、臼で挽いて煮るか、焼いて食べる。
風味は蜜菓子または、油菓子のようであった。
毎朝早く集めたのは、日が昇ると消えたからである。また夜を越すと腐敗した。各人の取る量は1オメル(2.2リットル)と規定されていた。
このマナを与えたのは、モーセではなく、彼らの神である。マナは、天からのパン(詩78:23 神は上の雲に命じて天の戸を開き78:24 彼らの上に食べ物としてマナを降らせ天の穀物を彼らに与えられた。78:25 それで人々は御使いのパンを食べた。神は満ちたりるほど食物を送られた。)だったが、それは永遠ではなく、なくなってしまうものであった。
しかし、イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(ヨハネ6:35)
人々の霊的な飢え渇きを永続的に満たしうる「いのちのパン」は、イエスご自身である。
ここで思い起こすのは、前々回の礼拝で語られた「サマリヤの女」の話である。
そこでイエスが与えると言ったのは、「決して渇くことのない、永遠のいのちへの水」(ヨハネ4:14)であった。
これを聞いて、サマリヤの女は、実際の水しか思い浮かばず、もう水汲みの必要がないように、それを与えて欲しいと言った。
今回は、永遠のいのちに至るパンの話である。私たちは、永遠ではない世界に生きている。
そのために、「永遠」という言葉をなかなか理解することができない。
ある者は「そんなものがあったらいいなあ」と憧れるかも知れないし、またある者は「あるわけがない」と疑うだろう。
いのちのパン
人間に必要な真の食物は、物質的食物ではなく、真のいのちを与える「天からのまことのパン」、すなわち「神のパン」であるイエスご自身である。では、この「永遠のいのちに至るパン」を手に入れるにはどうすれば良いのか。
それは、父なる神によってイエスの御許に導かれ、イエスを御子キリストと信じて、イエスにすべてを任せることである。イエスを信じて「いのちのパン」を与えられた人々は、決して失われることなく、この世で肉体的な死を経験しても「終わりの日」によみがえらせられ、永遠のいのちの完成を見る。
父がわたしに与えてくださる者はみな、わたしのもとに来ます。そして、わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません。
ヨハネ6:37-40
わたしが天から下って来たのは、自分の思いを行うためではなく、わたしを遣わされた方のみこころを行うためです。
わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。
わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。
永遠のいのちが与えられることは、父なる神のみこころであった。神は、御子を信じる者が一人として滅びることがないように切に願っておられる。そのためには、私たちがただ「信じる」ことなのである。
まことに、まことに、あなたがたに言います。信じる者は永遠のいのちを持っています。
ヨハネ6:47
イエス様は「いのちのパン」であり、それを受け取ることは神のみこころである。私たちは、ただ神を信じ、このパンをいただこうではないか。
質問)
- 「いのちのパン」とは何ですか?
- 「いのちのパン」を得るには、どうしたらいいですか?
- あなたは、「いのちのパン」を受け取っていますか?
Posted by shinnakano
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