パリサイ人ニコデモの訪問
神による新生

パリサイ人ニコデモの訪問

礼拝メッセージ

2022.10.16 礼拝説教
テーマ:神による新生
説教題:「パリサイ人ニコデモの訪問」
テキスト:ヨハネ3:1~5

3:1 さて、パリサイ人の一人で、ニコデモという名の人がいた。ユダヤ人の議員であった。
3:2 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」
3:3 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
3:4 ニコデモはイエスに言った。「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」
3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。

【新改訳2017】ヨハネ3:1~5

新しく生まれるとは?

「3:3人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」というイエスの言葉に対してニコデモは、「3:4人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」と言った。彼は、「新しく生まれる」という言葉に対して、人間的な理解しかできなかった。
「新しく」(ギリシャ語アノーセン)は「上から」とも訳される語である。それは、新しい誕生が霊的な、つまり超自然的な誕生であることを示している。「新しく生まれる」ことは、神の賜物であるイエス・キリストを受け入れることであって、自分の力で人生をやり直そうなどということではない。イエスによって新しく生まれる時、その人は神の国を見ることができるのである。
さて、この「神の国」とは「死んだ後に行く天国」というよりも、「神の支配」という理解が正しい。これは、神の主権が確立し、神のみこころが行われる社会を意味している。したがって、この社会の一員として神の支配に生きる者は、だれでも新しい誕生を経験する必要がある。新しく生まれた者は、神のみこころに従って歩むことを喜びとするだろう。

水と御霊による新生

ニコデモが知らなければならなかったのは、神が働いてくださる霊的領域の存在であった。イエスはその必要にこたえるように再び言われた。「3:5水と御霊によって生まれなければ」と。ここで「水」はヨハネの水によるバプテスマ、「御霊」はキリストの御霊によるバプテスマを指している。御霊によるバプテスマは異言を伴う聖霊のバプテスマのことではない。新しい誕生は、悔い改めの信仰と御霊のみわざによる自己の革新によってもたらされる。
私たちは肉のままでは救われないのであって、霊によって「上から」新しく生まれ変わる必要がある(3:6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。)。このことは、人間的に理解できることではない。イエスは、ニコデモに対してだけでなく、イエスのしるしを見て表面的に信じただけのユダヤ人たちに「あなたがたは新しく生まれなければならない」(3:7)と言われるのだった。
たしかに、「御霊によって生まれる」新しい誕生は、単純に理解できることではない。でも、その結果ははっきり認めることができる(3:8 風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」)。「風」はギリシャ語で「プニューマ」というが、「霊」という意味もある。「御霊はその思いのままに働き、あなたがたはその声を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない」と読みかえると理解しやすいかも知れない。風はその出所や行き先はわからないが、音を聞くことは出来るし、あるいはそよぐ木々を見れば今風が吹いていることがわかる。風そのものは目に見えなくても、その効力や影響力ははっきり把握できるのである。御霊によって生まれる者もそれと同じなのだ。

新生はイエスによって

神の国に入るための新しい誕生は、イエスを抜きにして語ることはできない。イエスは、人々が決して見ることができなかった神の国を示すために、「人となって」地上に来られた神の御子である。その目的は、罪によって死に定められていたすべての人を救うために、ご自身が死ぬことであった。
ここでユダヤ人であるニコデモがよく知っているモーセの青銅の蛇について語られる(3:14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。3:15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」)。かつてイスラエルの民が荒野を旅している時、彼らは指導者モーセに背いて罪を犯したため、燃える蛇にかまれて苦しんだ。その時モーセは、神のあわれみの指示によって一つの青銅の蛇を作り、すべての人に見えるように、それを旗竿の上につけた。その青銅の蛇を仰ぎ見た者たちは、みな死の刑罰を免れて生きることができた(民数記21:4-9)。そのように人の子であるイエスもすべての人に見られるように上げられなければならない。それは、十字架につけられることを意味していた。ここから、最も大事な聖句である次の「3:16神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」へとつながっていく。この節は「聖書の中の聖書」と言われている。これこそ、聖書のメッセージの要約なのである。神が私たち人間に伝えたかったことは、まさにここにあった。
そして聖書を読み進めると、いつの間にかニコデモの存在が消えている。この聖句はニコデモに対するイエスの言葉というよりも、福音書記者の解説と考えられる。なぜなら、イエスであれば「父」と呼ぶところを「神」と呼んでいるからである。神のひとり子であるイエスの死による「永遠のいのち」の賜物は、罪と死の支配下にある全人類に対する神の愛のゆえに与えられた。「世」とは、「罪に汚れた世界と人々」の意味である。神の愛は、そのような汚れた罪人を救うがために、ひとり子さえ惜しまず十字架につけるほど深く、また決定的なものであった。

結び)
人間が新しく生まれるためには、イエスの救いを受け入れなければならない。この肉体のいのちはいずれ終わる。しかし、生きている間にイエスにある新しいいのちを得た者は、新しい世界に生まれることができる。そして、神の御子イエスを愛して生きる新しい世界を歩んで行くのである。