試練には脱出の道がある

礼拝メッセージ

2022/1/30 礼拝説教
【テーマ】  試練
【説教題】 「試練には脱出の道がある」
【聖書箇所】 創世記22章

22:1 これらの出来事の後、神がアブラハムを試練にあわせられた。神が彼に「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は「はい、ここにおります」と答えた。
22:2 神は仰せられた。「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。」
・・・
22:9 神がアブラハムにお告げになった場所に彼らが着いたとき、アブラハムは、そこに祭壇を築いて薪を並べた。そして息子イサクを縛り、彼を祭壇の上の薪の上に載せた。
22:10 アブラハムは手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。
22:11 そのとき、【主】の使いが天から彼に呼びかけられた。「アブラハム、アブラハム。」彼は答えた。「はい、ここにおります。」
22:12 御使いは言われた。「その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった。」
22:13 アブラハムが目を上げて見ると、見よ、一匹の雄羊が角を藪に引っかけていた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の息子の代わりに、全焼のささげ物として献げた。
22:14 アブラハムは、その場所の名をアドナイ・イルエと呼んだ。今日も、「【主】の山には備えがある」と言われている。
22:15 【主】の使いは再び天からアブラハムを呼んで、
22:16 こう言われた。「わたしは自分にかけて誓う──【主】のことば──。あなたがこれを行い、自分の子、自分のひとり子を惜しまなかったので、
22:17 確かにわたしは、あなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように大いに増やす。あなたの子孫は敵の門を勝ち取る。
22:18 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたが、わたしの声に聞き従ったからである。」

創世記22章

○ 子ども殺しのニュースが流れる現代、心痛みます。聖書にも同じような恐ろしい話になりかけたことがあります。有名なアブラハムがその一人息子イサクを生贄として捧げるようにと神から言われた話です。

神の言葉に従うアブラハム

神の恐ろしい言葉が来た

    1.神から祝福の言葉を何度かいただいたアブラハムは神の声を聞き分けることのできる人です。そのアブラハムに信じられないような神の言葉が来ました。 「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。」 

    2.今日、神がこのようなことを言われることはありませんが、もし、このように言われたとしたら、私たちはその言葉に従う事はできるでしょうか? 「子どもの代わりに私のいのちをとってください」と言うのが親でしょう。それを親の方から子どものいのちをとるなんて事はできるものではありません。

自分勝手に解釈しなかった

    1.ところが、アブラハムはその神の言葉に従います。前回語りました、子どもを与えると言う神の言葉に対して、なかなか子どもが与えられなかったので、自分勝手に解釈して、サラの考えに従ってしまい、ハガルから子どもを生ませました。

    2.今回、アブラハムはそのような自分勝手な考え方をせず、神の言葉をそのまま受け止めました。

イサクを捧げる

苦しみの歩み

    1.3日間の道のりをイサクとしもべを連れて行きました。アブラハムが祭壇を築く人だということはイサクにもしもべにもわかっていたことです。特別な場所に行って祭壇を築き、生贄を捧げることは彼等にとっても普通のことだったでしょう。ただ、生贄の動物がいないことは気になっていたと思います。この時のアブラハムの苦しい心境が伝わってきます。「いつ、神は、『捧げなくてよろしい』と言ってくださるのだろうか?」と待ち望みつつ歩いたのではないでしょうか?

    2.イサクが捧げ物の羊はどこにいるのか聞きますがそれに対して心苦しかったと思いますが、アブラハムは 22:8 わが子よ、神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ。 と言っています。この発言は預言者アブラハムと言われた彼ならではの聖霊の導きでしょうか?

ホッとした瞬間

    1.ところが、遂にその場所に来ても彼の言った備えの羊が用意されもしないし、神から『捧げなくてよろしい』の声も聞こえないのです。そして、 アブラハムは、そこに祭壇を築いて薪を並べた。そして息子イサクを縛り、彼を祭壇の上の薪の上に載せた。 のです。さらに 22:10 アブラハムは手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。 のです。

    2.私はこの時のイサクが気になって仕方がありません。彼は自分が殺されるということをどのように受け止めたのでしょうか? 「父はおかしくなった」と思わなかったのでしょうか? イサクの従順さにはただただ驚くばかりです。

    3.そうしたとき、遂に声がありました。 その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった。 アブラハムの信仰、そしてイサクの信仰を神は受け入れられました。

アドナイ・イルエ

イサクの脱出の道

    1.私たちもたくさんの試練を受けてきたかと思います。それは私たちの信仰の成長のためであり、その結果神に栄光が帰せられるのです。アブラハムの受けた試練は相当のものだと思いますが、こうして聖書で結末を読めるからホッとします。そして、私たちも アドナイ・イルエ 「【主】の山には備えがある」 と言えるのです。 Ⅰコリ 10:13 あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。 の御言葉の通りです。

    2.イサクも相当の試練を受けたことになります。彼は私たちの姿でもあります。私たちは殺されなければならない存在でしたが、神が用意した 一匹の雄羊が角を藪に引っかけていた という羊のように、イエス・キリストの身代わりによって救われました。

イエスには脱出の道は無かった

    1.イエス・キリストには十字架という試練からの脱出の道はありませんでした。ゲツセマネの園で父なる神に「この杯をわたしから取り除けてください」と祈られましたが、その祈りは聞かれませんでした。しかし、そのお陰ですべての人の救いの道が開かれました。

    2.時として、私たちの祈りが聞かれない、大きな試練を受けているのに脱出の道が無いと思われる場合もあるかと思います。しかし、神はその試練を通してもっとすばらしい脱出の道を用意されているはずです。それを信じるのです。

★ アブラハムは神の言葉に従った結果、大きな試練を受けましたが、脱出の道を体験させていただきました。これによってアブラハムとイサクの信仰はさらに成長したと言えます。私たちも試練は受けます。しかし、脱出の道が備えられていることを覚えましょう。