死は過ぎ越した

死は過ぎ越した

礼拝メッセージ

2022/4/10 礼拝説教
【テーマ】  過越・イエスの十字架
【説教題】 「死は過ぎ越した」
【聖書箇所】 出エジプト7章-12章


12:3 イスラエルの全会衆に次のように告げよ。この月の十日に、それぞれが一族ごとに羊を、すなわち家ごとに羊を用意しなさい。

12:5 あなたがたの羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。
12:6 あなたがたは、この月の十四日まで、それをよく見守る。そしてイスラエルの会衆の集会全体は夕暮れにそれを屠り、
12:7 その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と鴨居に塗らなければならない。
12:8 そして、その夜、その肉を食べる。それを火で焼いて、種なしパンと苦菜を添えて食べなければならない。

12:11 あなたがたは、次のようにしてそれを食べなければならない。腰の帯を固く締め、足に履き物をはき、手に杖を持って、急いで食べる。これは【主】への過越のいけにえである。
12:12 その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人から家畜に至るまで、エジプトの地のすべての長子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下す。わたしは【主】である。
12:13 その血は、あなたがたがいる家の上で、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたのところを過ぎ越す。わたしがエジプトの地を打つとき、滅ぼす者のわざわいは、あなたがたには起こらない。
12:14 この日は、あなたがたにとって記念となる。あなたがたはその日を【主】への祭りとして祝い、代々守るべき永遠の掟として、これを祝わなければならない。

出エジプト7章-12章

○ 今週の金曜日15日は受難日です。イエス・キリストが十字架にかけられたことを記念する日です。もちろんその3日後の日曜日がイースターです。つまり来週がイースターです。十字架はとても残酷な刑ですが、それが私たちの罪の身代わりであったことを私達はどれほど実感しているでしょうか?

かたくなな心がもたらす災い

杖が蛇に

    1.モーセがファラオにイスラエルを解放するように交渉に行きますが、これは神から出たことです。神の命令によってモーセがファラオのところに行ったわけですが、ファラオはイスラエルの神がエジプトの神よりも強いとは到底思えず、モーセの言うことに従いません。

    2.最初はアロンの杖を蛇にしましたが、エジプトも魔術が盛んで、呪法士が同じ事をして見せます。ただ、アロンの杖の蛇が呪法士達の蛇を飲み込むのですが。ファラオはこんな事を見たくらいではイスラエルを解放しませんでした。

災いが起こる

    1.そこで、ここからエジプトに災いが起こります。最初は水が血に変わるという事ですが、なんとエジプトの呪法士達も同じ事をしますので、ファラオはかたくなでした。続いて蛙による災害です。これも呪法士達も同じ事をしたというのです。サタンは神の御業に似たことをするというのはよく知られていることです。ただ、呪法士達には蛙の始末ができませんでした。モーセによって蛙の災害が片付くとまたもファラオはかたくなになってイスラエルを解放しませんでした。

    2.第三番目はぶよによる災害です。ここからは呪法士達には真似ができなかったのです。こうして、第4番目はアブ、5番目は家畜の疫病、6番目はすすで、膿の出る腫れ物でした。7番目は雹で人、家畜、畑の作物に甚大な被害を与えました。8番目はいなごです。作物も草も食べ尽くしました。こんなことがあってもファラオはかたくなでした。

    3.そして9番目は暗闇です。エジプトの礼拝の主要な対象はラーと呼ばれる太陽神でした。その光を打ち破る意味があったのでしょう。ただ、イスラエル人のところには光がありました。明らかにエジプトの神はイスラエルの神に勝てないのをファラオはそれでも認めないのです。

最後の災い

神の命令

    1.ファラオのかたくなさはエジプトの国民をも苦しめました。遂に神は最後の災いを起こさざるを得ませんでした。初子の皆殺しです。人も家畜もすべて、初子は殺されるのです。傷の無い一歳の雄の子羊を屠り、その血を門柱とかもいに塗り、肉は食べ、残ったものは焼き尽くすというものでした。

    2.神様はこのように血塗られた家は死の使いを過ぎ越させるくださると言われました。それで「過ぎ越し」と言われます。しかも、このことを覚えて毎年この過ぎ越しの祭りを行うように命じられました。

死が襲った家と、通り過ぎた家

    1.真夜中、神のさばきが行われました。エジプト人の土地ではすべての家庭で泣き叫ぶ声がありました。そしてすべての初子が死に絶えたのです。それはたとえファラオの長子であろうとお構いなしです。

    2.一方、イスラエル人の家では門柱とかもいに血が塗られているので、誰も死を見ることはありませんでした。

十字架

門柱とかもいの血はイエスの血を表している

    1.この10の災いは私たちに何を教えていますか? ファラオのように神のわざを見ても心かたくなに神を信じない、神の言葉に従わないなら誰でも裁かれるということです。しかし、9番目の災いまでは初子が死ぬことはありませんでした。ファラオが悔い改めてイスラエル人を解放すればそんなさばきを受けることは無かったのです。

    2.10番目の災いはイスラエルとて血を門柱とかもいに塗っていなければ死を見るものでした。その血塗られた家の中にいることで死を免れたのです。これは後のイエスの十字架を示しています。

十字架の内側にいる者は救われる

    1.イエス・キリストの十字架の死、その血によって死は通り過ぎるのです。それはその血塗られた家に入っていることでです。つまり神の言葉に従った人達です。

    2.イエス・キリストは「神の言葉」です。神の言葉を代弁する天使でも無く、「神の言葉」そのもの、つまり神です。このお方を信じる、つまり、イエスの言葉に従うならば救われるのです。

★ 神は愛の神ですが、罪は裁かれます。神の命令に従わないと裁かれます。神はかなりの間、忍耐をもって待っておられますが、最後の裁きはあります。そこで神の言葉であるイエスの血塗られた十字架の中に身を寄せるとき、死は通り過ぎます