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マタイ28:1-15

イエス様に命をたくす

礼拝メッセージ

説教者:海師
2024.3.31礼拝説教
説教題『イエス様に命をたくす』
【説教箇所】マタイ28:1-15

28:1 さて、安息日が終わって週の初めの日の明け方、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見に行った。
28:2 すると見よ、大きな地震が起こった。主の使いが天から降りて来て石をわきに転がし、その上に座ったからである。
28:3 その姿は稲妻のようで、衣は雪のように白かった。
28:4 その恐ろしさに番兵たちは震え上がり、死人のようになった。
28:5 御使いは女たちに言った。「あなたがたは、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのは分かっています。
28:6 ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。さあ、納められていた場所を見なさい。
28:7 そして、急いで行って弟子たちに伝えなさい。『イエスは死人の中からよみがえられました。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれます。そこでお会いできます』と。いいですか、私は確かにあなたがたに伝えました。」
28:8 彼女たちは恐ろしくはあったが大いに喜んで、急いで墓から立ち去り、弟子たちに知らせようと走って行った。
28:9 すると見よ、イエスが「おはよう」と言って彼女たちの前に現れた。彼女たちは近寄ってその足を抱き、イエスを拝した。
28:10 イエスは言われた。「恐れることはありません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えます。」
28:11 彼女たちが行き着かないうちに、番兵たちが何人か都に戻って、起こったことをすべて祭司長たちに報告した。
28:12 そこで祭司長たちは長老たちとともに集まって協議し、兵士たちに多額の金を与えて、
28:13 こう言った。「『弟子たちが夜やって来て、われわれが眠っている間にイエスを盗んで行った』と言いなさい。
28:14 もしこのことが総督の耳に入っても、私たちがうまく説得して、あなたがたには心配をかけないようにするから。」
28:15 そこで、彼らは金をもらって、言われたとおりにした。それで、この話は今日までユダヤ人の間に広まっている。

〈新改訳2017〉マタイ28:1-15
イエス様に命をたくす

永遠に生きる命

 この裏金による隠蔽で隠したかったこと、でも隠しきれなかったことは、イエス様の復活です。祭司長たちにとってイエス様の復活はただの面倒くさい事件でしたが、本当は、全人類にとって復活は、喜び祝うべきできごとです。なぜなら復活されたイエス様だけが、人を天国に連れて行くことができるからです。どれだけ多くの人が生命保険に掛け金をかけていると思いますか?ではどれだけの人が死んだ後の自分の命が天国にあると確信しているでしょうか?皆考えたくもないことではないでしょうか。多くの人にイエス様を伝えましょう。ただし、神とともに生きる道を備えてくださったイエス様に人生の最後に頼むだけではもったいないです。今から信じてイエス様を主として迎えていきましょう。

① 復活は神のわざ

 イエス様の復活は神様のわざです。復活は、簡単に見過ごすことのできない、神のわざによる大事件です。イエス様が十字架にかかった時は、祭司長たちは今日の箇所ほどは慌てふためいていませんでした。マタイ27:41から43節ですが、祭司長たちが、イエス様が十字架にかかったことをののしっている場面です。
 27:41 同じように祭司長たちも、律法学者たち、長老たちと一緒にイエスを嘲って言った。
 27:42 「他人は救ったが、自分は救えない。彼はイスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおう。そうすれば信じよう。
 27:43 彼は神に拠り頼んでいる。神のお気に入りなら、今、救い出してもらえ。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」
 このようにののしられて、イエス様は、十字架刑で、死なれました。自分で降りてみろと言われても、降りませんでした。十字架にかかる前でさえ、祭司長たちに散々な罪を着せられましたが、抵抗しませんでした。死を受け入れたのです。しかし、死後三日たってからは状況がまるで違っていました。厳重に警備して、封印までされた墓石は開いているし、御使いはやってくるし、イエスの遺体はありません。神様のこと軽く見過ぎですね。人間がどんな手で隠そうとしても、神様は復活させるのです。復活は、昔の政治家や、宗教家が作ったものではなくて、神様が私達への強烈なメッセージとして起こしたことですから、しっかり受け止めていきましょう。

② イエス様は主

 28章5-7節を見ると、御使いがマリアたちに話しかけるのです。その内容は次の通りです。まずイエスが復活した、そして墓を見なさい、最後に弟子にガリラヤに行くように伝えよ。なぜガリラヤかというと、イエス様が以前からそう言っていたからです。26章31-32節です。
 イエスの弟子達は、イエス様が亡くなり、迷子のような気持ちだったでしょう。でもマリア達は、御使いが、「ガリラヤ」と言ったことを聞いて、私の主はイエス様だと思い出せたのです。神様優しいですね。いつでもどこでも主は主です。ユースキャンプで、荻野茶々先生が、「信仰が傷つけられて小さくなっても、イエス様を病院にも学校にも連れていく」と言った言葉が印象に残っています。私達に、主という存在がいるから、傷つけられても、癒しがあります。何かに縛られている時でも、イエス様が力をくれます。イエス様を主として真剣に向き合って歩み続けるから、死を前にしても、神と歩んだ祝福の日々を思い起こせるのです。もちろん自分の命は霊的には天国にいきます。今日からでも、イエスを主として歩むことをスタートもしくは再スタートする決断をしてほしいです。

③ 喜んでたくそう

 天使の言葉を聞いたマリアたちが墓地を立ち去ると、なんとイエス様が現れました。そして28章9節で、マリアは喜んで礼拝しました。
 イエス様の足を抱いたとありますが、嬉しさのあまり飛びついたということです。足を抱く行為を実際考えてみると、自分は身を低くしているのですよね。だから足を抱けます。地面に伏せて、拝んでいたのだと言う神学者もいます。ギリシャ語をどう日本語に訳すかということはさておいても、実際9節を見ると、「イエスを拝した」という言葉がありますから、マリアたちはイエス様を礼拝したのです。つまり、マリアたちの行動は、一方では、喜びの表現、そしてもう一方では、イエス様への礼拝でありました。私達も喜んでたくしていきましょう。疑念は捨て去り、「神が与えようとしている命があるんだ。」「主イエスと一緒にどこまでも生きていけるんだ」この喜びをもって、祝って過ごしていきましょう。