聖くなるために

神はあなたに聖さを求められる

礼拝メッセージ

2022/10/9 礼拝説教
【テーマ】  聖くなるために
【説教題】 「神はあなたに聖さを求められる」
【聖書箇所】 レビ記19:1-2

19:1 【主】はモーセにこう告げられた。
19:2 「イスラエルの全会衆に告げよ。あなたがたは聖なる者でなければならない。あなたがたの神、【主】であるわたしが聖だからである。

レビ記19:1-2

○ 先週レビ記の1章を見ました。創世記、出エジプトと時間をかけて見てきて、いよいよレビ記まで来たわけですが、レビ記は先週と今日の2回で終わります。ここには、生贄についての律法、祭司の律法、汚れと聖めについて、聖い生活について書かれていますが、私たち新約時代のクリスチャンには直接的な関係が薄いです。ですから、大事な点だけ抑えたいと思います。

レビ記を知るために

レビ記ほど神が直接語っている書はない

    1.「レビ記」と訳された語は、「レビ人について、レビ人に関する」という意味です。レビ記の著者はモーセですが、もちろん真の著者は神です。モーセはイスラエルの歴史、出エジプトの歴史を知らないイスラエル人のためにモーセ五書を書いています。

    2.カナンの地は神が与えた約束の地で、そこで何のために生きるかを知らせるために書きました。出エジプト記の末尾で、どこで神を礼拝するかが明らかにされ、レビ記ではどのように神を礼拝するかが語られています。レビ記ほど神が直接語っておられる書は他にありません。

イスラエルは祭司の王国、聖なる国民

    1.レビ人とは12部族の一つであるレビ族全員のことです。レビ族のうち、アロンの一家が祭司として取り分けられました。アロンの一家以外は祭司の補助者となったのです。彼らの働きは幕屋の管理運営です。

    2.イスラエルは 出エジプト19:6 あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。 と言われているように、その存在自体が祭司的なのです。ということは、イスラエルは聖なる国民として生活しなければならないのです。レビ記はその聖なる生き方を教えています。

レビ記の中心は

神と出会えない人が神に出会える方法

    1.レビ記は罪に汚れた人、つまり神と遠く離れた人がどうすれば神と近しく過ごせるかを教えている書なのです。出エジプト記は最後に幕屋を造ったことが記されていて、幕屋に神がお住まいになることを教えてくださいました。レビ記はその続きで、1章~10章は、聖なる神に近づく方法を教えています。そのために生贄を献げる必要とその働きのために祭司の職が重要であることを記しています。

    2.11章からは、人が外的にも内的にも聖さに至るための道を教え、どのように神を礼拝すべきかを教えています。それは 19:2「イスラエルの全会衆に告げよ。あなたがたは聖なる者でなければならない。あなたがたの神、【主】であるわたしが聖だからである。 と言われたように、神が聖なる方だから、神に近づく者も聖なる者で無ければならないということです。

聖なる者と認めていただくために

    1.その聖なる者となるのはもちろん、罪を犯さないことなのですが、人間は罪人です。罪を犯したものは償いをして、相手に赦していただくしか無いのです。それで償いとしての生贄を献げて赦しを願ったのです。

    2.イエスは姦淫の現場で捕らえられた女が連れて来られて石打にされそうになったとき、イエスは ヨハネ8:7「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」 と言われ、人が次々その場を去って行くと、女に向かって ヨハネ8:11「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」 と言われました。罪を犯さないようにと。

レビ記と新約聖書の関係

イエスの血が完全な赦しの血となった

    1.旧約時代は罪の代償として様々な生贄が必要でした。  レビ17:11実に、肉のいのちは血の中にある。わたしは、祭壇の上であなたがたのたましいのために宥めを行うよう、これをあなたがたに与えた。いのちとして宥めを行うのは血である。 と、神は血による身代わりを決められたのです。自分の飼っている家畜を自分の罪の身代わりとして献げるのですから、大きな痛みです。

    2.今の時代はなぜ生贄を必要としないのでしょうか。罪人という点では旧約時代の人々と変わりは無いと思います。私たちの罪も血による代償が必要だったのですが、それをイエスが完璧な生贄として献げてくださったのです。完璧ですからもう生贄はいらないし、私たちの罪は赦されたのです。

イエスの血によって私たちは聖いものとされた

    1.ヘブル書はこう言っています。

    10:1 律法には来たるべき良きものの影はあっても、その実物はありません。ですから律法は、年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって神に近づく人々を、完全にすることができません。
    10:2 それができたのなら、礼拝する人たちは一度できよめられて、もはや罪を意識することがなくなるので、いけにえを献げることは終わったはずです。
    10:3 ところがむしろ、これらのいけにえによって罪が年ごとに思い出されるのです。
    10:4 雄牛と雄やぎの血は罪を除くことができないからです。

    10:10 このみこころにしたがって、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。

ヘブル10:1-4,10

    2.私たちが聖なる者とされたということは、幕屋ではなく、直に神と交われる関係に入ったということです。そういう関係に入ったから罪を犯さないというのではありません。罪を犯さないでいられる人にしていただいたので、聖い生き方を心がけることは必要なのです。

● 車の免許が取れる年齢になり、自動車学校にも通い、テストにも合格し、免許をいただいたからといって、交通違反しない人になったわけではありません。あおり運転する人、信号無視する人、駐車違反する人等々たくさんいます。資格が与えられたから常に安全運転できるわけではなくて、安全運転を意識しているからできるのです。

★ 神は私たちと親しい交わりができる道を用意してくださいました。私たちはイエス・キリストを信じるだけで罪赦され、天国が保証されるというすばらしい命をいただきましたが、罪を犯さなくなったわけではないので、聖い生き方を心がけることは大事なのです。それは神礼拝、聖書、祈り等々の基本的な生活の中にあるのです。