イエスのお陰で救われた
完全な生贄

イエスのお陰で救われた

礼拝メッセージ

2022/10/2 礼拝説教
【テーマ】  完全な生贄
【説教題】 「イエスのお陰で救われた」
【聖書箇所】 レビ記1:1-9

1:1 【主】はモーセを呼び、会見の天幕から彼にこう告げられた。
1:2 「イスラエルの子らに告げよ。あなたがたの中でだれかが【主】にささげ物を献げるときは、家畜の中から、牛か羊をそのささげ物として献げなければならない。
1:3 そのささげ物が牛の全焼のささげ物である場合には、傷のない雄を献げなければならない。その人は自分が【主】の前に受け入れられるように、それを会見の天幕の入り口に連れて行き、
1:4 その全焼のささげ物の頭に手を置く。それがその人のための宥めとなり、彼は受け入れられる。
1:5 その若い牛は【主】の前で屠り、祭司であるアロンの子らがその血を携えて行って、会見の天幕の入り口にある祭壇の側面にその血を振りかける。
1:6 また、全焼のささげ物はその皮を剝ぎ、各部に切り分ける。
1:7 祭司であるアロンの子らは祭壇の上に火を置き、その火の上に薪を整える。
1:8 祭司であるアロンの子らは、その切り分けた各部と、頭と脂肪を祭壇の火の上の薪の上に整える。
1:9 内臓と足は水で洗う。祭司はこれらすべてを祭壇の上で焼いて煙にする。これは全焼のささげ物、【主】への食物のささげ物、芳ばしい香りである。

レビ記1:1-9

○ 「レビ記」というとその内容はあまり知られていないと思います。いや、そんな名前さえ知らなかったという人も多いと思います。しかし、ユダヤ人にとっては生贄のことを教える大事な書です。現代の私たちにはほぼ意味の無いことのように思われますが、「生贄」といえば「イエス・キリスト」を思い出していただきたいのです。このレビ記から生贄の意味、イエス・キリストととの関係が見えてくるのです。

生贄の献げ方

献げ方の順序

    1.まず生贄の献げ方を見てみましょう。

全焼のいけにえとしてささげられるのは、若い雄牛か、雄の子羊か雄やぎであって、雌は用いられない。奉献の順序は次の通りである。
    ① 奉献者は会見の天幕の入口の所に、いけにえの家畜を連れて来る。 そして、彼は、その頭に手を置く。
    ② 奉献者は、祭壇の北側で主の前に、そのいけにえをほふる。
    ③ 祭司は、その血を器に入れて、祭壇の回りに注ぎかける。
    ④ 奉献者は、更にその皮をはぎ、各部分に切り分ける。 内臓と足は水で洗う。
    ⑤ 祭司は、整えられた祭壇の上に切り分けた部分と頭と脂肪のすべてを置き、全部を焼いて煙にする。

すべてのいけにえ奉献について言えることであるが、注目すべきことは、奉献者自身がいけにえをほふるということである。それは本来祭司の仕事ではない。後に、祭司やレビ人の助けを受けるようになったであろうとは思われるが、基本的にはささげる人自身がほふるのである。奉献者が手を置くことによって、そのいけにえの家畜は、彼の代りとなり、ほふられるのである。「彼を贖うため、彼の代わりに受け入れられるため」に、手を置くのである (4)。

いけにえの奉献(新聖書講解シリーズ3 p21より

手を置くということは

    1.生贄の動物に手を置くということは、その動物がその人の罪の身代わりになることを意味しています。つまり、手を置くというのは何か物を置くというような意味合いではなく、「委ねる」ということです。

    2.生贄は自分の罪のために身代わりに死んでくれる家畜を自らの手で屠るという儀式です。手を置くというのは自分の罪をその家畜に委ねるということです。

儀式は形だけではいけない

なぜ儀式をするのか?

    1.神学のように知識を要することのためにはある程度の学力、知力が必要ですが、儀式としての実際行動だと子どもでも見てわかるものです。そして、それを真似て行う事もできるからです。

    2.子どもでも見てわかるのでこの儀式を心を込めて行うなら神に喜ばれるわけです。さらに実際に行う事で自分の信仰がより明確になるからです。

    3.今でもキリスト教会には洗礼式と聖餐式という儀式があります。洗礼を受けなければ救われないわけではありません。むしろ救われたことを明確にし、クリスチャンとして生きることをしっかり表明するために行います。聖餐式は私たちの身代わりとなってくださったイエスを思い起こすために行います。

形式主義に陥ってはならない

    1.儀式はあくまでも形ですから、この儀式を行う人に気持ちがこもっていなければ意味が無くなります。単なる演技になってしまうわけです。儀式さえ行えば良いという儀式主義は形式主義に陥ってしまいます。

    2.それは礼拝にも言えることです。礼拝会という会に出席していれば神を礼拝したことになるかというとそうではありません。こころから神を崇めてこそ礼拝です。歌えば賛美したことになるわけでは無いし、目をつぶり、頭を下げれば祈ったことになるわけではありません。心からが大事なのです。

完全な生贄

家族のような動物を献げる

    1.生贄の動物というのは、自分の家で飼っていた家畜で、家族のようにしていた家畜です。その家畜を殺さねばなりません、それも自分の手で。どれほど辛いことでしょう。かつて見た映画に畜産家の子どもが牛の赤ちゃんが生まれてくるところから見て育ち、子牛を大事に育ててきたのですが、ある時その子牛が売られていきます。大きくして食肉にするためです。そのことを知っている男の子はその子牛が売られていく場面で泣きじゃくり、車を追いかけます。何ともせつない場面です。

    2.そのように家族のような家畜を生贄にするのです。しかも、自分で殺さねばならないのです。それは自分の罪がそれほど大きなものだと自覚するときです。

イエスに罪を完全に委ねる

    1.しかし、動物の生贄は完全な生贄ではありません。動物は人間よりも劣り、決して身代わりにはなれないのです。神が考えてくださった最高の生贄は人間ですが、それは罪の無い人間でなければなりません。しかし、そんな人間はいません。神が人とならない限り無理です。そこで、神のひとり子イエスが人間となられ、わたしたちの罪の身代わりに死んでくださったのです。そこで、完璧な生贄が成立しました。

    2.このイエスに手を置いて自分自身を委ねることが「イエスを信じる」という行為です。形では無く、心から信じるということです。イエスは神ですから完全です。この方が私の身代わりとなってくださったのですからこのイエスを信じるなら完璧に救われます。

★ キリスト教は形式的な宗教ではありません。「信じる」という告白で成り立っています。そして、その告白を表明するのが「洗礼」です。それは「イエスが私の身代わりに死んでくださったので、私は天国が保証されました」という確信のもと行われるものなのです。あなたもイエスを信じて、洗礼を受けてください。