弱い者に励ましを与える神 Ⅱコリント12:2

天国、いや違う!

礼拝メッセージ

説教者:藤井敬朗
2024/6/16 礼拝説教
【テーマ】  弱い者に励ましを与える神
【説教題】 「天国、いや違う!」
【聖書箇所】 Ⅱコリント12:2

 12:2 私はキリストにある一人の人を知っています。この人は十四年前に、第三の天にまで引き上げられました。肉体のままであったのか、私は知りません。肉体を離れてであったのか、それも知りません。神がご存じです。

Ⅱコリント12:2

○ 私の入院・手術の際には皆さんにどれほどのお祈りをいただいたことでしょうか。心から感謝をしております。そして、この手術後ICUに入った私は不思議な体験をしました。そしてその体験はさらに翌日の重症患者室でも続き、一般病棟に戻ってからも少しの間続きました。その不思議な体験は私には神からの励ましと感じられましたので証として皆さんにお分かちしたいと思います。

天国、いや違う!

Ⅰ.夢か?幻か?

A.パウロの言う「第三の天」

    1. この人は十四年前に、第三の天にまで引き上げられました。 とありますが、 この人 というのはパウロのことです。なぜ「私」としなかったのかというのは学者たちは、パウロの体験が特殊だったのでパウロが自分だというと傲慢に聞こえるから3人称を使ったのだろうと言っています。 第三の天 というのは、神の領域の天、天国かも知れません。パウロは 肉体のままであったのか、私は知りません。肉体を離れてであったのか、それも知りません。神がご存じです。 と、幽体離脱のような体験をしたのかも彼にもわからないというのです。

    2.私はパウロのようなそこまでの体験は残念ながらしていません。気が付いたのはICUに入るところでした。私の不思議な体験はここからで、夢なのか、幻なのか、私もよくわからないという体験です。聖書には夢、幻はいくつも出てきます。旧約のヨセフが見た夢、ダニエル、エゼキエル達預言者の見た幻、新約のヨセフの見た夢、ペテロがコルネリオの救いに導かれた幻、ヨハネの黙示録などかなりありますが、勝手な解釈はしてはなりません。私の見た幻も色々解釈できるかも知れませんが、私にとっては大変大きな励ましになったのでそのままお語りしたいと思います。

B.老人(藤井敬朗)は夢を見る???

    1. 使徒2:17 青年は幻を見、老人は夢を見る。 とありますが、「幻」と「夢」にはそんなに大きな差は無いと言われます。現代は聖書時代のように夢に特別な意味があるような言い方はあまりしません。私もそう思っていましたが、高槻にいた時に何度か幻が与えられ、神からの励ましをいただきました。新中野に来てから一度も幻は与えられていませんでした。それが、今回「何だこれは?!」と思うような体験をしたのです。

    2.ICUで私は痛みで眠れませんでした。「痛くて眠れないなら、連鎖祈祷中だから祈ろう!」と祈り始めました。時々うとうとするのですが、頭の後ろで心臓の不調を示すランプが着き、警告音が鳴ります。先生方が飛んできて「大丈夫ですか?」と聞かれる、私に意識があることを確認すると戻られます。こんなことが何度もあり、心臓のための薬が点滴に注入されました。

    3.そんな中、夢か幻かわからないようなものを何度も見たのです。私にはこれは幻だと実感しました。夢とは違って、目の前にリアルな映像が見えるのです。私は「これは夢か?」とそっと目を開けても、閉じても見えるような不思議な映像なのです。「脳を触る手術だったから、先生も遂におかしくなったか!」と思われても仕方ありませんが、私にとっては地獄のようなICUでの恵みの時間でした。

Ⅱ.励まされるビジョン

A.天国へ行けるかと思いきや、地獄のICU

    1.最初の幻は母が登場します。かつていつも見ていた笑顔の母でした。でも一言もしゃべりません。後ろにはたくさんの人がいたようなのですが誰がおられたかわかりません。イエス様も天使もいません。この時「私は天国に行くのかな?」と思いました。でも何の不安もありません。しかし、現実は地獄のようなICUでした。

    2.次の瞬間、「違う!私は生かされるんだ!」と直感しました。すると警告音がなってハッと目覚めるというか? 先生方が「大丈夫ですか?」と聞かれるのです。また目を閉じるとはっきりした映像が見えました。今度は高槻教会の牧師館の玄関に私と新中野教会のメンバー数名がいて、ご近所とお別れでご挨拶している映像です。すると、また警告音!です。

    3.次は普通の家ですが、そこは教会(家の教会)です。新中野教会の方々、高槻教会の方々が登場、みんなで一生懸命礼拝のための準備をしているのです。信徒の方が説教の準備をし、別の方が音楽の準備をし、真剣ですが楽しそうでした。すると、そこでまた警告音。

B.生き生きした教会活動、大人も子供も一緒

    1.続いての映像は大きな一軒家でした。そんな立派ではない普通の家ですが、これも教会です。あちこちの部屋で子どもたちのために集会をしているようでした。信徒の皆さんがそれぞれの部屋で子どもたちのための集まりをしているのです。みんなで楽しそうに子どもたちと何かしているのです。また、警告音。

    2.次は明らかに会堂でした。広いステージがあります。どこの教会なのか見たことのない会堂で、ちょっと古かったです。そこで、子どもたちと一緒になって音楽、劇のリハーサルしているのです。ところが、同時に「聖餐式もしなければ!」と、私は聖餐式の準備を始めるのです(12日が聖餐式だから気になってそんな夢を見たのでしょうか?いつものテーブルを運んでいる映像でした)。とても忙しい、しかし生き生きしていて、みんなでやっているから楽しい雰囲気いっぱいでした。もっとその映像を見ていたかったのに、警告音です。

    3.まだまだ他にも見ていたのですが、いつしか朝になり、主治医が来られて、「藤井さん、CTを撮ります」と、運ばれて行きました。続いてナースセンター前の個室、重症患者室に入りました。相変わらず全く起き上がれないばかりか、配線や管がまだいっぱい付いています。うとうとすると、また映像が与えられました。。

Ⅲ.教えられるビジョン

A.祈られていることを初めて実感した

    1.この部屋では警告音の装置は無く、心電図はそのまま前のナースセンターに届いていました。音を気にせず寝ていました。と言っても、様々な痛みで熟睡できないのです。そして、この間にいくつも映像があったのですが、あやふやになっています。そして、幾つ目の映像だったか、たくさんのクリスチャン(クリスチャンだけではないかも知れない?)が目の前にわーーーと笑顔で登場するのです。直感的ですが、皆さん、全員いたと思います。100人や200人ではありません。すごい数です。
    2.そしてその瞬間「私はこの方々に祈られているんだ」と実感するのです。その実感というのは上手く言葉にできないのですが、皆さんが祈ってくれているというその感動の感覚がグワーーーッと私に迫ってくるのです。どれだけ嬉しいか。その時また、瞬間的に「祈りは回数や時間ではない」と示されるのです。つまり、登場した方々の中には私のためにすごい時間をかけ、真剣に祈ってくださった方がおられたでしょう。しかし、ある方は私のことをあまり知らなくてちょっとだけしか祈ってなかったかも知れません。またある方は私のことを思ってくださっても祈りの言葉としては無かったかも知れません。しかし、「みんな祈っている」おだと知らされたのです。

B.イエスのとりなしに勝るものはない

    1.このことはすごく心に留まり、もう幻を観なくなって、普通の夢しか見なくなってからも、気になって仕方ありませんでした。「祈られている」という嬉しい感動が続いています。祈り心でこのことを思い起こしていた時に、私自身の祈りを考えさせられました。誰かのために毎日祈っていたり、たまにしか祈らなかったり、よくわからないために「●●さんをお守りください」くらいしか祈っていなかったこともあります。しかし、全部、イエス様のとりなしによって「イエスの名によって」父なる神に届いていたのだと知らされたのです。

    2.もし、皆さんの中で、私のために「あまり祈ってなかった」と思う方があっても何も気にしないでください。言葉数が多ければ聞かれるわけではないのです(参:マタイ6:7)。マタイ20章に出てくるぶどう園の主人は、わずかな時間しか働いていない者にも同じ1デナリを与えています。神は祈りの時間が多いとか、少ないとかを見ておられません。

★ ビジョン(幻)は入院中の私にとってとてつもなく素晴らしい励ましでした。警告音をずっと聞いていると「もしかして、このまま天国に行くのか?」と思ったり、「再手術もあり」と聞いガクッと来そうになる私を励ますためにくださったのか、もっと後になってわかる幻なのか?わかりませんが、神は誰一人見捨てないお方だということ、たとえ、苦しいことがあっても、神の恵みはその何万倍も大きいのだということを知らせてくださいました。皆さん、神に愛されています。そして、互いの祈りはイエスの名によってしっかり父なる神に届いています。どんなことがあっても大丈夫です。