捨てさせるイエス

礼拝メッセージ

2025/2/23 礼拝説教
【テーマ】  イエスに着いて行く
【説教題】 「捨てさせるイエス」
【聖書箇所】 マルコ1:16-20
【説教者】藤井敬朗牧師

1:16 イエスはガリラヤ湖のほとりを通り、シモンとシモンの兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。
1:17 イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」
1:18 すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。
1:19 また少し先に行き、ゼベダイの子ヤコブと、その兄弟ヨハネをご覧になった。彼らは舟の中で網を繕っていた。
1:20 イエスはすぐに彼らをお呼びになった。すると彼らは、父ゼベダイを雇い人たちとともに舟に残して、イエスの後について行った。

マルコ1:16-20

○ 野生の猿を捕まえる方法に、壺の中にピーナッツを入れておき、それを猿がつかむと握り拳が引っかかって取れなくなり、ピーナッツを捨てなかった猿は捕まえられるという方法があります。
  人も手につかんでいた何かを捨てたときに幸せをつかむことができたということが多々あります。

捨てさせるイエス

Ⅰ.イエスに召し出される

  A.人間をとる漁師になる

    1.シモン(ペテロ)達は生涯の仕事を魚を捕る漁師と決めていました。また、それが当たり前でもありました。ですから漁師をしているときには大漁、不漁はあっても、彼らの人生をかき乱されるということは無かったでしょう。彼らは自分の人生設計を自分でしていて、漁師から何かに変わるなんていうことは全く考えていなかったのです。

    2.しかし、イエスの方から声がかかりました。イエスは 湖で網を打っているのをご覧になった のですが、この言葉はただ見ただけではなく、ジーッと見つめておられたという言葉です。そして、 「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」 と、彼らを召されたのです。召したというか、彼らを人間をとる漁師にするために、まずイエスが人間をとる漁師としてガリラヤ湖のほとりを歩いておられたのです。

イエスに着いて行く弟子たち

    1.漁師の彼らにはイエスの弟子になるという計画は無かったかも知れませんが、イエスはそういう人たちにもご計画をお持ちなのです。私たちにも何らかの計画をお持ちだということです。このペテロ達のようにイエスの方から呼び出されたらはっきりします。イエスは12人を呼び出して、さらに何十人もの弟子をおつくりになりました。

    2.イエスは決して一人で宣教活動をされませんでした。この弟子たち、特に12弟子を連れてあちこちに行かれました。福音書のあちこちに「一行は」「彼らは」と書かれていて、常に弟子たちはイエスと共にいるのです。私たちもイエスの弟子ですから、イエスと共に歩くのです。

捨てる人生に新しい人生

捨てて着いて行く

    1.人は良い人生を送りたくて人生設計をします。ところが本質がわからないときに金儲けだけを人生の目的のようにしてしまいます。猿がピーナッツをつかんで命を失うようなことをしているのです。それを捨てれば逃げて、命を得ることができるのですが、手放さない人がいるのです。

    2. 1:18 すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。 と、弟子になった漁師たちは漁師という仕事を捨てました。しかし、この家族を捨てたようなシモンですが、この後すぐ、イエスと一緒に自分の家に入っていきます。姑の病気をイエスが癒される場面です。イエスは弟子たち、クリスチャンの家族を無視なさる方ではありません。

捨てて得るものがある

    1.ある自閉症の子どもさんをもった女医さんが、この子は母親との時間を必要としていると感じて医者をやめられました。結果、その子は自閉症ではあるものの自分でブティックを開くまでになりました。捨てたときに我が子を得られたのです。

    2.シモンのようにではなくても、イエスは私たちについて来るように願っておられます。その時には何かを捨てなくてはならないかも知れません。その時に私たちはイエスに着いて行けば「どんな益があるだろうか?」と考えて得をすると思って着いて行くのでしょうか? お母さんが我が子を愛していたので医者の仕事を捨てられましたが、私たちもイエスを愛するが故に着いて行くのではないでしょうか。

絶対に着いて行くという決断

シモンの決断

    1.シモンに用意されていた人生は漁師でしたが、イエスに呼ばれて人をとる漁師という新しい人生に入りました。イエスはシモンを呼ばれましたが、その道を選ぶかどうかは彼の自由でした。結果、彼は選んで従ったのです。

    2.神は神の栄光のために人を用いられますが、決して奴隷のように用いられません。人の側の自発的な行為を喜ばれるのです。シモンにもそのようにされました。シモンは自分はこれから「人間をとる漁師になるのだ」と決断して着いて行くのです。

イエスの後を着いて行く

    1.多くの弟子達はイエスがイスラエルの王になると期待し、着いて行ったかも知れませんが、イエスは十字架にかけられてしまいます。その時、網を捨ててイエスに着いて来た弟子たちがイエスを捨てた瞬間です。しかし、イエスは彼らを捨てませんでした。後にそのイエスの愛を知った弟子たちは絶対に離れないという決断をしています。

    2.イエスの弟子は12人だけではありません。名前は出て来なくても復活の朝、墓に行った女性たち、彼女達も弟子だったのです。他にも聖書に名前の出てこない弟子たちがたくさんいたようです。彼らもイエスの愛に触れ、イエスを愛する者となったため、イエスに着いて行く決断をしたのです。そういう彼らによって世界に福音が広まったのです。

● かつて国鉄と言った時代。その職員達でキリスト教の集まりを作ったそうです。その中の若い二人NさんとTさんは同じ教会に通っていました。二人は宣教師について聖書を勉強しているうちに神学校に行って牧師になる決意を固めたのです。ところが、二人共神学校に行くにはとてもお金が足りませんでした。そこで、Tさんは「君が神学校に行け! 僕は君の学費を応援する」と言ったのです。そして、Nさんは神学校に行き、Tさんの経済的応援のおかげで牧師になりました。N牧師の教会にTさんは通い、応援を続けました。そして、役員を何十年もされました。今は共に93才でしょうか? Tさんもイエスに着いて行ったのです。そして、牧師になる決意は持っていたのですが、「Nさんを支える者になる」と決断されたのです。

★ イエスはあなたに 「わたしについて来なさい」 と言われています。もちろん、それを決めるのはあなたです。イエスはあなたを愛しておられ、あなたの幸せのために命を捨ててくださいました。あなたもこのイエスに着いて行きませんか。