主の手がここにある

礼拝メッセージ

2025/3/9 礼拝説教
【テーマ】  聖餐式 主と共にある平安
【説教題】 「主の手がここにある」
【聖書箇所】 マルコ1:29-31
【説教者】藤井敬朗牧師

1:29 一行は会堂を出るとすぐに、シモンとアンデレの家に入った。ヤコブとヨハネも一緒であった。
1:30 シモンの姑が熱を出して横になっていたので、人々はさっそく、彼女のことをイエスに知らせた。
1:31 イエスはそばに近寄り、手を取って起こされた。すると熱がひいた。彼女は人々をもてなした。
マルコ1:29-31

○ 「安息日」については何度か話してきましたが、現代でも宗教熱心なユダヤ人の安息日の過ごし方は作業(仕事)をせずに安息日を過ごします。火や電気、車などを使うという行為も「作業(仕事)」のうちに入るので、禁じられています。今では電気・ガスで楽になりましたが、聖書時代は火をつけるのも一苦労で大変な作業でした。その時代の名残もあり、今でも安息日には火や電化製品は禁じられています。安息日には店もすべて閉まってしまいます。携帯電話も電化製品で使えません。交通機関も止まっていますし、車を使うことも禁じられています。安息日前の準備ができたら、聖なる日にふさわしい白い服を着て安息日の始まりの祈りを捧げます。この祈りは女性の役目で、祈りながらろうそくを付けた時点で安息日が始まります。金曜日の夜は、家族みんなで豪華な食事を楽しみながら和気あいあいと過ごし、土曜日はお祈りをしたり、聖書を読んだり、散歩するのが一般的な過ごし方だそうです。
    当然、イエスの時代も安息日規定は厳しかったようです。

主日礼拝 主の手がここにある

安息日を守れない人のため

シモンの家に行かれたイエス

    1. 一行は会堂を出ると とは、この前に読みました21節~28節のところ、カペナウムにある会堂(シナゴーグ)です。そこでイエスは教えられ、人々はその教えに権威を感じて驚いたところです。しかも、悪霊を追い出された会堂です。そこを出て、シモン(ペテロ)とアンデレの家に入られました。いわゆる礼拝をしてからですので、まだ午前中のことかも知れません。いったいこの時代何時ごろから礼拝が行われていたのでしょう? 

    2. シモンの姑が熱を出して横になっていた と、安息日に礼拝に出席できなかったシモンの姑がいたのです。シモン・ペテロには奥さんがいて、奥さんのお母さんも一緒にいたようです。もしかするとシモンの奥さんもお姑さんも信仰深い方だったのかも知れません。そこにイエスが行かれるのです。

安息日に病をいやすイエス

    1.安息日にシモンの姑さんが礼拝に出られずに家で横になっておられました。そんなところに訪問するでしょうか? 迷惑です。ということはイエスが行かれたのは姑さんを癒すためです。会堂で悪霊を追い出し、今度は病気を癒されるのです。

    2.新中野教会も病気で礼拝出席できない方、仕事で来れない方、家族の介護などで来れない方がおられます。聖餐式に出席できない人もたくさんおられます。そういう方々のところにもイエスは共にいてくださるのです。主の日、イエスはその方々のところに出向かれているのではないでしょうか。

イエスは癒すお方

手を取ってくださるイエス

    1.仮に信仰が深くても病気になることはあります。それどころか信仰者が大変な病気で苦しんでおられる話も聞きます。私たちは病気の方のところに行ってできることはいくらかの励ましを与えること、祈ることくらいです。もちろんそれでよいのです。ですが、イエスは癒すという目的を持って行かれます。

    2.ルカの福音書では 4:39 イエスがその枕元に立って熱を叱りつけられると、熱がひいた。彼女はすぐに立ち上がって彼らをもてなし始めた。 と、病気を「叱った」と書いています。おもしろい癒し方ではないですか。マルコでは 手を取って起こされた とありますが、これは癒されることがはっきりしていることを言い表しているのではないでしょうか。

マルコも感動したイエス

    1.マルコはシモン・ペテロの通訳をしていましたので、この姑さんの癒しの話も何度も聞いていたのかも知れません。ペテロが嬉しくて「イエスは会堂を出ると、おまえの家に行こうと言って、私の妻の母親を癒してくださったんだ」と何度も語ったのではないでしょうか。それをマルコが書き留めたと思います。

    2.シモンはイエスについて行くとき「家族を捨ててついて行った」のです。しかし、イエスはその家族を愛してくださっています。

元気になってもてなす

主に仕える者になった人

    1.癒された姑はもてなしたとあります。聖書の中ではイエスを最初にもてなした人です。シモンでも、アンデレでもないのです。もてなすとは「仕える」ということです。この時からこの姑はイエスに仕え始めたのです。

    2.また、シモン・ペテロの妻は信者となり、つまり伝道者夫人となり、主に仕えているのです(Ⅰコリント9:5 私たちには、ほかの使徒たち、主の兄弟たちや、ケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか)。この癒しの出来事はペテロの働きを活発にさせることになったのではないでしょうか。

癒されて主をもてなす

    1.安息日の礼拝の後の午後の時間、前日に用意しておいた食事を家族そろってゆっくり食すというのが当時の習慣でした。ところが、シモンの家は姑が病で寝ていたのです。そこでイエスが姑を癒して元気にし、家族がそろったのです。シモンの家に安息日の平和が実現したのです。

    2.姑さんが「もてなした」のはイエスに対する感謝の表れであり、私たちの礼拝を意味しているのではないでしょうか。私たちは日曜日に主と共に過ごす平安をいただき、感謝にあふれて奉仕をするのです。

● 今日はこの後、聖餐式です。これに出席するのは奉仕ではありませんが、イエスに対する感謝の表れの時間でもあります。

★ 今日、この主の日、主の手がここにあります。あなたの手をイエスに伸ばしてください。そうです、手を伸ばしてパンを取ってください。