そのために来たイエス

礼拝メッセージ

2025/3/16 礼拝説教
【テーマ】  宣教の始まり
【説教題】 「そのために来たイエス」
【聖書箇所】 マルコ1:32-39
【説教者】藤井敬朗牧師

1:32 夕方になり日が沈むと、人々は病人や悪霊につかれた人をみな、イエスのもとに連れて来た。
1:33 こうして町中の人が戸口に集まって来た。
1:34 イエスは、様々な病気にかかっている多くの人を癒やされた。また、多くの悪霊を追い出し、悪霊どもがものを言うのをお許しにならなかった。彼らがイエスのことを知っていたからである。
1:35 さて、イエスは朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しいところに出かけて行き、そこで祈っておられた。
1:36 すると、シモンとその仲間たちがイエスの後を追って来て、
1:37 彼を見つけ、「皆があなたを捜しています」と言った。
1:38 イエスは彼らに言われた。「さあ、近くにある別の町や村へ行こう。わたしはそこでも福音を伝えよう。そのために、わたしは出て来たのだから。」
1:39 こうしてイエスは、ガリラヤ全域にわたって、彼らの会堂で宣べ伝え、悪霊を追い出しておられた。
マルコ1:32-39

○ 教師時代、中学生からよく聞いた言葉の一つに「何のために勉強するんですか?」でした。特に受験に必要のない「美術」を勉強する意味が分からない生徒は多かったみたいです。思春期の生徒たちは悩みが多いです。「何のために生きるのか?」「何のために学校に行くのか?」。「何のために」が見つけられないのです。イエスは 1:38 「・・・そのために、わたしは出て来たのだから。」 と言われました。イエスはご自分が「人として生まれた意味」がわかっておられました。

そのために来たイエス

人々はイエスに驚いた

町中の人が来た

    1.シモンの姑の癒しの後、たくさんの病人がイエスのところに押し寄せています。そして癒されていきます。人々は姑の噂を聞いて駆けつけてきたのかも知れませんが、日が暮れてから集まったということは安息日が終わったからです。とすれば、イエスが姑を癒されたときはまだ安息日の最中だったのでしょう。

    2. 1:33 こうして町中の人が戸口に集まって来た。 と、小さな町だったとしても町中の人が来たのであれば、イエスのことが他の町や村に広まるのは当然でしょう。これからの短期間に福音を広めるためには大きな力になったことでしょう。

悪霊を追い出された

    1.イエスは病気を癒し、またここでも悪霊を追い出され、悪霊にはものを言うことも禁じられました。悪霊でも正しいことも言います。24節で 1:24 「ナザレの人イエスよ、私たちと何の関係があるのですか。私たちを滅ぼしに来たのですか。私はあなたがどなたなのか知っています。神の聖者です。」 と言っています。人々はこの言葉でイエスに権威を感じたでしょう。でも悪霊の言葉を聞いてはならないのです。

    2.悪霊がたとえイエスを正しく伝えたとしても、それが神のみこころであり、神の時でなければ、人々にイエスを誤解させるだけに終わります。つまり、人々はイエスをヒーローとして見始めているのです。それはイエスがイスラエルをローマ帝国から解放するユダヤの王になると考えたからです。

    3.しかし、イエスは神です。人々はイエスを罪からの救い主、神の子であることを信じなければならないのです。悪霊の言うことを聞いてはなりません。イエスは悪霊を追い出し、 マタイ12:28 しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。 と地上に(私たちの中に)神の国を造り始めました。

神の国建設のために

神の前に出て祈る

    1.いくらすぐに癒しを行うことのできるイエスといえども、安息日の終わった夕方から次々人が来て癒しておられたなら、一体何時までかかったのでしょうか? イエスも人間の姿をとっておられる以上疲れておいでになるはずです。

    2. 1:35 さて、イエスは朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しいところに出かけて行き、そこで祈っておられた。 と、イエスは朝早くに祈りに行かれています。昨晩たくさんの人を癒すという霊的な働きをされたイエスは肉体の疲れはもちろんあったでしょうが、霊的なエネルギーを補充されるために祈りに行かれたのです。イエスが祈り無くして病気を癒すことができないとか、悪霊を追い出すことができないということはないでしょう。

    3.イエスが寂しいところで祈るのは霊的なエネルギーを得て癒したり、悪霊を追い出すという働きのためなのでしょうか? それよりも神と交わるということ自体が目的だと思います。私たちも同じです。私たちもエネルギーが欲しいがために祈るというより、神と交わりたいから祈るのです。

宣教が目的

    1.私たちはイエスと同じように癒しを行うということはできないかも知れません。しかし、私たちもイエスの権威をいただいています。ですから、主の名によって祈り、癒しを行うこともできるのです。しかし、癒しを行うことが最優先事項なのでしょうか? イエスのところに人々が集まって来ましたが、イエスは「次へ行こう」と言われます。イエスの働きの目的ははっきりしています。宣教です。癒しが主たる目的ではありません。

    2.イエスは十字架にかかるまでの限られた時間の中ですべき事がはっきりしていたのです。その大事な働きのために「癒し」の業も行われたのです。決して癒しを行ったり奇跡を行うことが目的ではありません。 1:39 こうしてイエスは、ガリラヤ全域にわたって、彼らの会堂で宣べ伝え、悪霊を追い出しておられた。 と、イエスは宣教され、悪霊の働きを阻止されました。

    3.私たちも目的をいただいています。宣教です。イエスに働かれた聖霊は私たちに同じく宣教の目的を果たすことを願っていらっしゃいます。宣教のために癒しを祈ることは大切なことなのです。癒されるためだけを祈るのではありません。人々がイエスとの交わりを持つようになることが最優先です。

● 私たちも聖霊の賜物をいただきますが、その中には「癒しを行う力」があります。賜物は宣教のために使われなければなりません。

★ イエスが癒しを行われたのは宣教のためです。そして、祈られたのはエネルギー補充というより、神の御心をいつもはっきり知るためです。私たちも主たる目的をしっかり知るために祈り、愛の業を行っていこうではありませんか。