あなたの求めているものは正しいか?

礼拝メッセージ

2025/3/23 礼拝説教
【テーマ】  真に必要なもの
【説教題】 「あなたの求めているものは正しいか?」
【聖書箇所】 マルコ1:40-45
【説教者】藤井敬朗牧師

1:40 さて、ツァラアトに冒された人がイエスのもとに来て、ひざまずいて懇願した。「お心一つで、私をきよくすることがおできになります。」
1:41 イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。
1:42 すると、すぐにツァラアトが消えて、その人はきよくなった。
1:43 イエスは彼を厳しく戒めて、すぐに立ち去らせた。
1:44 そのとき彼にこう言われた。「だれにも何も話さないように気をつけなさい。ただ行って、自分を祭司に見せなさい。そして、人々への証しのために、モーセが命じた物をもって、あなたのきよめのささげ物をしなさい。」
1:45 ところが、彼は出て行ってふれ回り、この出来事を言い広め始めた。そのため、イエスはもはや表立って町に入ることができず、町の外の寂しいところにおられた。しかし、人々はいたるところからイエスのもとにやって来た。
マルコ1:40-45

○ 神学生の時に清瀬にある「全生園」というハンセン病療養所に行きました。体を病んだばかりか、社会からも隔離され本当につらい生涯をを過ごされてきた方々がたくさんおられました。でも、その中でクリスチャンになった方々がたくさんおられ、大変伝道的であったことに感動したのです。でも、どんなに癒されたかっただろうかと思いました。

あなたの求めているものは正しいか?

真の病は何か?

ツァラアトという病気

    1.ここに「ツァラアト」といいう名前の病気が登場しますが、前の訳は「らい病」でした。しかし、「ツァラアト」は必ずしも「らい病」というわけではないことがわかり、原語の「ツァラアト」のまま表記することにしたそうです。ただ、「ツァラアト」は社会生活ができなくなる病気で彼らは孤立していました。ここに登場した病人も孤立していたと思います。

    2.彼はイエスの噂を聞きつけて癒しを求めてやって来ました。彼は 「お心一つで、私をきよくすることがおできになります。」 と言いましたが、この「ツァラアト」になると、宗教的にもけがれているとみなされ、人のいるところを通らなければならない時は「私はけがれている」と叫びながら通らねばなりませんでした。もちろん礼拝に行くこともできませんでした。ですから、「ツァラアト」を癒していただくことは同時に宗教的にも回復することだったのです。癒された体を祭司に見せて「きよい」と宣言してもらえると社会復帰できたのです。

罪という病気

    1.こうした弱さを抱える人が孤立してしまうこと自体、社会全体が病んでいるということではないでしょうか。これが人間の罪の結果であるのです。肉体の死と病気はもちろん罪の結果でしたが、こうした社会が病んでいることも罪の結果なのです。しかし、罪の解決より、病気や経済、ローマ帝国からの解放が根本的解決と思っていたのでしょう。現代も似ていると思います。

    2.当時、何かしらすごい人が登場すると「メシアだ!」とほめそやし、そうでないとわかると怒るのです。イエスが病気を癒されたり、悪霊を追い出したりされると「メシヤだ!」と騒ぎ立てるのですが、自分たちの思い通りにされないと失望してしまい、怒り、離れていくのです。この罪になかなか人は気付かないのかも知れません。

真の癒しは何か?

イエスは深くあわれまれた

    1.人々が近づきたくないこの病人に対してイエスは深く憐れまれました。憐れむというのは「愛された」ということです。この孤立した人をイエスは愛されました。この病人を「かわいそうに」と思う人は多くいたかも知れませんが、決まりとして彼を遠巻きにするしかなかったのです。しかし、その病人に近づいたのはイエスです。

    2.イエスは 手を伸ばして彼にさわり とあるように、彼にさわられたのです。当時の常識では絶対に触れてはいけないことでした。宗教指導者がそんなことをしたらその身分は剥奪されるでしょう。なのにイエスはその人をさわりました。病人は驚いたことでしょう。そんなことをする人は今までいなかったし、医者もさわらなかったのです。彼もイエスがさわるとは思ってもみなかったと思います。彼が願ったのは 「お心一つで、私をきよくすることがおできになります。」 だったのです。イエスに癒してもらえるだけで良いと思ったのです。が、イエスはさわられたのです。

きよくなれ!

    1.この病人にさわったイエスは、彼の願いのごとく 「わたしの心だ。きよくなれ」 と、言われました。 1:42 すると、すぐにツァラアトが消えて、その人はきよくなった のです。「ツァラアト」が消えたということは、彼は社会の中に戻れるのです。そして、何と言っても素晴らしいのは宗教的にけがれが無くなったということで礼拝にも出席できる、神殿にも行けるのです。神の民とされるのです。神との交わりができる者とされたのです。

    2.この時点でこの病人はイエスが罪を赦すことのできるお方だとは理解できていないと思います。彼の信仰は「イエスには私の病気を癒すことができる」という程度だったでしょう。罪も救いも理解していないと思います。そこでイエスは彼に誰にも話さないように言われました。ただ、「癒す人」「すごい人」として噂を広められたのではイエスの本来の福音を伝える働きが鈍ります。イエスの本来の働きは人を罪から解放することですから。

真に求めるべきは何か?

ふれ回った

    1.イエスは彼に誰にも話さないようにと言われましたが、 1:45ところが、彼は出て行ってふれ回り、この出来事を言い広め始めた のです。気持ちはわかりますね。どれほど嬉しかったでしょうか? 同時に自分のけがれが無くなり宗教的にも社会的にも回復したことを人々に宣伝したかったでしょう。

    2.しかし、 そのため、イエスはもはや表立って町に入ることができ なくなりました。癒しをうたい文句にする宗教家なら彼の宣伝はすごい効果的だったでしょうが、イエスの本来の働きの中心は癒しではありません。

 寂しいところ

    1.では、イエスはどうされたのでしょうか? 町の外の寂しいところにおられた のです。病人を町の中に帰すことができましたが、イエスは町から出なければなりませんでした。イエスはよく寂しいところに行かれました。そこは神との交わりの場です。

    2. しかし、人々はいたるところからイエスのもとにやって来た と、人々は真のイエスではなく「癒す人」「ローマからの解放者」としてまつり上げたいのです。イエスを捜して寂しいところに来たとしても人々は神との交わりに入ったのではありません。むしろイエスと神との交わりを邪魔している感じですね。イエスのように神との交わりを求めるべきです。

● あなたの寂しい場所はどこですか? 私の教え子U君は不登校気味で成績の良くない生徒でした。彼は中卒で就職しましたが人間関係が上手くできず、仕事を転々としました。私が神学校に入った年の夏、苦しんでいる彼を教会に呼びました。その日に彼はイエスを信じたいという気持ちを持ち、家に帰る途中で新聞配達の仕事を見つけました。毎週彼は教会に来て洗礼も受け、実に明るくなりました。その彼から聞いた話。朝の新聞配達が終わると誰もいない高槻では有名な小さな渓谷「摂津峡」に行き、その川の中にある大きな岩の上で毎日祈っていたそうです。それが彼の成長の源となりました。

★ 人は自分の願いが最優先で他に大事なことがあっても見失いがちです。聖書は人が求めなければならないものを教えています。神との交わりです。