私たちは仲間以上

礼拝メッセージ

 2025/8/10 礼拝説教
【テーマ】  神の家族
【説教題】 「私たちは仲間以上」
【聖書箇所】 マルコ3:31-35
【説教者】藤井敬朗牧師

3:31 さて、イエスの母と兄弟たちがやって来て、外に立ち、人を送ってイエスを呼んだ。
3:32 大勢の人がイエスを囲んで座っていた。彼らは「ご覧ください。あなたの母上と兄弟姉妹方が、あなたを捜して外に来ておられます」と言った。
3:33 すると、イエスは彼らに答えて「わたしの母、わたしの兄弟とはだれでしょうか」と言われた。
3:34 そして、ご自分の周りに座っている人たちを見回して言われた。「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟です。
3:35 だれでも神のみこころを行う人、その人がわたしの兄弟、姉妹、母なのです。」
マルコ3:31-35

○ 今日のテキストからイエスは地上の家族と違う神の家族を語られました。今日はこのことから「神の家族」を考えてみましょう。

私たちは仲間以上

イエスの母と兄弟たち

連れ戻そうとした

    1.大勢の人が集まっている家に イエスの母と兄弟たちがやって来て、外に立ち、人を送ってイエスを呼んだ。 とあります。使いの人が 「ご覧ください。あなたの母上と兄弟姉妹方が、あなたを捜して外に来ておられます」と言った のです。なぜ捜して来たのかと言えば、連れ戻すためでした。ここに母マリアもいるのですが、マリアもイエスを正しく理解していなかったのでしょうか?

    2.この前の個所で「イエスは悪霊に憑かれている」などとひどいうわさも流れたわけです。母マリアはイエスのことをよく理解していると思うのですが、まだ不十分としか言いようがありません。ましてや弟たちにすれば「また兄は人騒がせなことをしている」というような感じでしょうか。とにかく連れ戻そうとしたわけです。彼らは家の中に入っていません。外にいたのです。

身内の者も理解してくれない

    1.私たちクリスチャンは家族に理解されているでしょうか? 私はクリスチャンになって教会に行くことを父に理解してほしくて伝えましたが、父の激怒はすごいものでした。増してや「教師を辞めて牧師になる」と言った時には殺されるかと思ったほどでした。さらに結婚の話を出した時は「お前の結婚相手は俺が決める!」と突っぱねられ、最初は会おうともしてくれませんでした。身内に理解してもらうのはなかなか難しいかも知れません。

    2 3:33 すると、イエスは彼らに答えて「わたしの母、わたしの兄弟とはだれでしょうか」と言われた と、イエスは何やら薄情な言い方をされています。では本当に薄情なのでしょうか? 母マリアに対する愛は、十字架の場面でヨハネに託すなど福音書から幾つも感じ取れます。薄情であるはずがありません。

私の母、私の兄弟

イエスの周りに来た人々

    1. ご自分の周りに座っている人たちを見回して と、イエスの周りには年配者も子どももいたと思われます。 3:32 大勢の人がイエスを囲んで座っていた ということは、イエスのうわさを聞いて癒してほしいという病人もたくさんいたかもしれません。そういう全ての人をイエスは見回されたのです。私たちもみんなイエスは見回してくださっているのです。

    2.イエスの周りに来ている人々を見て ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟です と、その人たちを神の家族と言われたのです(私たちも同じように言われています)。ルカの福音書10章のマルタとマリアの話(ルカ10:38-42)で、マリアはイエスのそばに座り込んで話に聞き入っていました。 ルカ10:39 彼女にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた と、あります。イエスの周りに集まるということ、 主の足もとに座って はイエスの言葉に耳を傾けることです。こういう関係をイエスは神の家族と言われているのではないでしょうか。

みこころを行う人

    1. 3:35 だれでも神のみこころを行う人、その人がわたしの兄弟、姉妹、母なのです と、みこころを行う人が神の家族だと言われました。言い方を変えると、みこころを行わない人は神の家族ではないということになります。

    2.そうするとみこころを行っているかどうかが問われ、私たちも同じく問われます。このイエスの言葉から思うに、みこころはイエスの周りに集うこと、マリアのように御言葉に聞き入ることがみこころを行うことに繋がるのです。

神の家族

「みこころを行ってください」

    1.みこころを行う人が神の家族ですが、みこころと言う時真っ先に浮かんでくるのはイエスがゲツセマネの園で祈られたところです。 マルコ14:36 そしてこう言われた。「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」 ここが前の訳では 14:36 またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」 この祈りの言葉にある「みこころ」ですね。

    2.この祈りの後、いつもイエスの周りにいた弟子たちは逃げ去ったのです。ユダに関しては裏切ったと書かれています。神の家族には神の愛を裏切る者も含んでいたというのです。しかし、イエスの愛は変わらなかったのです。それどころか、イエスは一人ぼっち、孤独になっても神のみこころを願われたので、神は十字架というみこころを行われました。

    3.私たちは果たしてみこころを行えるのでしょうか? イエスがみこころを行って十字架を受け入れてくださったので、私たちのためにとりなしていただき、私たちを神の家族にしてくださったのです。

イエスは私達を家族と見てくださる

    1.弟子たちはイエスのそばでイエスの言葉に聞き入っていたはずなのですが、いざ現実の問題が襲ってくると離れてしまいました。イエスのたとえ話四つの土地のいばらの地を思い出します(マルコ4章)。サタンの誘惑は巧妙ですから、聞いてきたイエスの言葉がなかなか生きて生活に働かないのです。

    2.大変な時に頭は働くのですが、世的な知恵、知識が先に出てきやすいのです。そして、神の導きを待つよりも先に行動してしまい後悔することがあるものです。

    3.イエスの母や兄弟たちの方が、弟子たちよりも、ここに集まっていた人たちよりもずっとイエスの身近な人たちであったのに、イエスは ご自分の周りに座っている人たちを見回して言われた。「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟です と言われました。一時はイエスから離れてしまう人たちだったかも知れませんが、それでもイエスのそばに来て、イエスの話を聞いた人たちをイエスは家族から除外されないのです。

● あのルカの福音書15章に出てくる放蕩息子も一時は家を離れ落ちぶれたけれども家族だったのです。

★ あなたはイエスの家族でしょうか? イエスはあなたを家族とみなしてくださっているのではないですか。