
ハンナの祈り
2025.8.17礼拝
テーマ: 神に献げる
【説教題】ハンナの祈り
【聖 書】Ⅰサムエル1:10-17
【説教者】藤井佳子牧師
1:10 ハンナの心は痛んでいた。彼女は激しく泣いて、【主】に祈った。
1:11 そして誓願を立てて言った。「万軍の【主】よ。もし、あなたがはしための苦しみをご覧になり、私を心に留め、このはしためを忘れず、男の子を下さるなら、私はその子を一生の間、【主】にお渡しします。そしてその子の頭にかみそりを当てません。」
1:12 ハンナが【主】の前で長く祈っている間、エリは彼女の口もとをじっと見ていた。
1:13 ハンナは心で祈っていたので、唇だけが動いて、声は聞こえなかった。それでエリは彼女が酔っているのだと思った。
1:14 エリは彼女に言った。「いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい。」
1:15 ハンナは答えた。「いいえ、祭司様。私は心に悩みのある女です。ぶどう酒も、お酒も飲んではおりません。私は【主】の前に心を注ぎ出していたのです。
1:16 このはしためを、よこしまな女と思わないでください。私は募る憂いと苛立ちのために、今まで祈っていたのです。」
1:17 エリは答えた。「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように。」
Ⅰサムエル1:10~17
問題は神の御前に差し出す
ハンナの夫エルカナはハンナを愛していたが、子どもが出来なかったためにペニンナを妻に迎え、彼女との間に子どもをもうけた。しかしペニンナは、エルカナが本当に愛していたのはハンナであることを妬んでいた。そのためペニンナはハンナに意地悪な行為を行った。
エルカナ一家は、毎年シロの幕屋を訪れ礼拝をささげていたが、この時もハンナは苦しみ、泣いて食事をしようともしなかった。彼女の苦しみとは何か。(1)
神から見離されている(2)後継ぎが得られなくて夫に申し訳ない(3)ペニンナが、ハンナをいらだたせたということが考えられる。
主が胎を閉じられたことは、ハンナにとって苦しみの始まりであった。ここで彼女は、神から離れてしまうのではなく、むしろ以前にも増して神に近づいていったのである。私たちの日常生活でも、問題は絶えず起こるし、それに苦しめられるものだ。いつまでも解決しない問題によって、神に祈ることもしなくなることがあるのではないか。「どうせ祈っても無駄だ。神は聞いてはくださらない。」と。だが、ハンナのように神の御前にその問題を差し出そうではないか。
祈りの中での決断
こうして、ハンナは祈った。「神が胎を閉じておられるのなら、私のために開いてください」と激しく泣いて訴えたのである。しかもその訴えは、ただ悩み事を繰り返すというものではない。彼女は、いつの間にか祈りの中で重要なことを決断していたのだった。ハンナは、その決断を誓願という形で自分に確信させようとしている。
1:11 そして誓願を立てて言った。「万軍の【主】よ。もし、あなたがはしための苦しみをご覧になり、私を心に留め、このはしためを忘れず、男の子を下さるなら、私はその子を一生の間、【主】にお渡しします。そしてその子の頭にかみそりを当てません。」
当初、ハンナを祈りに駆り立てたものは、ペニンナとのいさかいから逃げ出したい、子どもさえ与えられれば解決する、との思いだったのではないか。もしも、祈りがずっとそのような内容であったなら、ハンナは神の御前で口から出任せを言っていることになる。そうではなくて、ハンナは祈りの中で変えられていたのだ。彼女はすでに、悩みを全て出し切ってしまえばすっきりする、という段階を超えて、神に対する条件付きの取引的な祈りを克服しているのである。苦しみながら、明確な決断へと至ったのだ。
神に献げる
もし神が男の子を授けてくださるなら、その子そのものを献げるとハンナは決断した。初めての子ども、ようやく授かった子どもを手離して、神に一生献げるというのだ。「その子の頭にかみそりを当てません。」とは、ナジル人を意味している。ナジル人とは聖別されたという意味を持つ。神に対して特別にささげられた人である。ナジル人は、ぶどう酒を断ち、頭髪を切らず、死体の汚れを避け、不浄の食物を摂取しないことを誓った。サムエルの場合には頭髪を剃らないことだけが記されている。
現代では、子どもは作るもの、親の所有物という意識が高い。しかし、ハンナにとって子どもは神の賜物なのだ。子どもは神との関わりの中で考えられなければならない。神のもとにある子どものあり方が最善なのだとハンナは考えていたのである。
ハンナには子どもがいないという苦しみがあった。が、祈り求めていくうちに、いつしか肉的な自分の思いが改められ、子どもが与えられることの意味が変えられた。彼女の顔はもはや以前のようではなかった(1:18)ハンナには、子どもが与えられるという確信と共に、子どもを献げる決心から平安をいただいたのだ。彼女にとって、子どもを抱いて幸福感に浸り、ペニンナを見返すことではなかったのである。1:28 それで私もまた、この子を【主】におゆだねいたします。この子は一生涯、【主】にゆだねられたものです。」こうして彼らはそこで【主】を礼拝した。
人間的に考えれば、ようやく与えられた子どもを手離すことなどありえるだろうか。このころの子どもが乳離れするのは2,3 歳だったようである。そんな可愛い盛りの子どもを他人に預けるとは考えられないことだ。しかしハンナは違った。その子を神にお献げすることが、彼女にとっての真の幸福であった。この後、ハンナは三人の息子と二人の娘を授かっている(2:21)。
結び)
ハンナは祈りの中で、子どもが与えられることを求め続けたのではなかった。むしろ、授かった子どもを神に献げると決断した。私たちも、自分本位の祈りに縛られることなく、神に明け渡し、お献げしようではないか。
Posted by shinnakano
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