主よ、お話しください。しもべは聞いております。

礼拝メッセージ

【テーマ】神の御声を聞く
【説教題】主よ、お話しください。しもべは聞いております。
【聖 書】Ⅰサムエル3:1-10
【説教者】藤井佳子牧師

3:1 さて、少年サムエルはエリのもとで【主】に仕えていた。そのころ、【主】のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった。
3:2 その日、エリは自分のところで寝ていた。彼の目はかすんできて、見えなくなっていた。
3:3 神のともしびが消される前であり、サムエルは、神の箱が置かれている【主】の神殿で寝ていた。
3:4 【主】はサムエルを呼ばれた。彼は、「はい、ここにおります」と言って、3:5 エリのところに走って行き、「はい、ここにおります。お呼びになりましたので」と言った。エリは「呼んでいない。帰って、寝なさい」と言った。それでサムエルは戻って寝た。
3:6 【主】はもう一度、サムエルを呼ばれた。サムエルは起きて、エリのところに行き、「はい、ここにおります。お呼びになりましたので」と言った。エリは「呼んでいない。わが子よ。帰って、寝なさい」と言った。
3:7 サムエルは、まだ【主】を知らなかった。まだ【主】のことばは彼に示されていなかった。
3:8 【主】は三度目にサムエルを呼ばれた。彼は起きて、エリのところに行き、「はい、ここにおります。お呼びになりましたので」と言った。エリは、【主】が少年を呼んでおられるということを悟った。
3:9 それで、エリはサムエルに言った。「行って、寝なさい。主がおまえを呼ばれたら、『【主】よ、お話しください。しもべは聞いております』と言いなさい。」サムエルは行って、自分のところで寝た。
3:10 【主】が来て、そばに立ち、これまでと同じように、「サムエル、サムエル」と呼ばれた。サムエルは「お話しください。しもべは聞いております」と言った。
Ⅰサムエル3:1-10

祭司エリのもとで

サムエルは乳離れしてから、シロにある宮に行く。当時、乳離れする年齢は2,3 歳とされていた。そのような幼い時から、サムエルは祭司エリのもとで主に仕えていた。「そのころ、【主】のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった。」(3:1)とあるが、「まれ」とは「貴重な」という意味である。これはまさにエリの時代の宗教的状況を示している。
サムエルは日々、朝早く起き、掃除をし、年老いた祭司エリや宮に来る人々の世話をしていた。雑用としか言いようのない仕事を忠実にこなしていくのも主に仕えることだ。しかし、日常の主の宮の活動はなされても、生きた主のみことばのない所で、主に仕えること自体が成立しないのではないか。彼はまだ主を知らなかったし、主のことばも彼に示されていなかった。彼が知る神は、日常のしきたりによって礼拝される神であり、エリを通して知る神であった。エリに服従してきたサムエルにとって、彼の環境は閉鎖的であり、エリの指導も十分なものではなかった。だが、サムエルの指導者はエリであり、エリの言うことが絶対であった。
エリ自身は高齢のために指導力や霊的な鋭さを失っていた。彼の二人の息子に対してもまともな指導ができずにいた。息子たちは祭司の特権を乱用して、神に献げられたいけにえをむりやり自分たちのものにしていた(2:12~17)。また、そればかりでなく、宮で仕える女性たちと寝るという罪をも犯していたのだ(2:22~25)。ある日、神の人がエリに現れて、エリと息子たちの罪を指摘する。息子たちは死に、彼らのみならず、その子孫はみな早死にすると言うのだ(2:27~36)。これは、エリ家全体に関わる裁きであった。しかし、エリの家系に代わる忠実な祭司が起こされることも伝えられる。それはサムエルであり、後々にはイエス・キリストが遣わされるのだった。2:35 わたしは、わたしの心と思いの中で事を行う忠実な祭司を、わたしのために起こし、彼のために確かな家を建てよう。彼は、わたしに油注がれた者の前をいつまでも歩む。

その方は主

ある夜、サムエルが夜番のために宮の燭台の前で寝ていた時、主は彼を呼んだ。「サムエル、サムエル」という呼びかけに、彼はエリが呼んだと思い、エリのもとへ行く。エリは、自分は呼んでいないから戻って寝るように言う。このようなことが三度繰り返された時、エリは、サムエルを呼んでいるその方は主であることに気づく。
エリは長年主に仕えてきた。神に仕えるという誇るべき仕事を続けてきたのである。高齢ゆえにその働きが衰えてきたとはいえ、それは人生最高の仕事であった。しかし、それは終わりを遂げる時がやってきた。今や、若いサムエルに主は語りかけたのだった。この事態をエリは悟ったのである。生涯を神に献げてきたエリにとって、これが最後の務めとなった。3:9 それで、エリはサムエルに言った。「行って、寝なさい。主がおまえを呼ばれたら、『【主】よ、お話しください。しもべは聞いております』と言いなさい。」
こうしてサムエルは、主の呼びかけに応じる。だが、主の言われた内容は、エリの息子たちの罪ゆえにエリ家に神の裁きが下るというものであった。翌朝エリはサムエルに、主の告げられたことは何かとたずねた。サムエルは悩んだ。たとえ師と仰ぐ人に対しても、預言者は神の言葉を伝えなくてはならない。3:17エリは言った。「主がおまえに語られたことばは、何だったのか。私に隠さないでくれ。もし、主がおまえに語られたことばの一つでも私に隠すなら、神がおまえを幾重にも罰せられるように。」3:18 サムエルは、すべてのことをエリに知らせて、何も隠さなかった。エリは言った。「その方は【主】だ。主が御目にかなうことをなさるように。」

「主よ、お話しください。しもべは聞いております。」

これは、預言者サムエルが語った言葉である。でも、現代に生きる私たちにとっても重要な言葉ではないだろうか。私たちは全ての人が預言者ではない。が、主の語りかけには、いつでも耳を傾けなくてはならない。その御声は肉声とは限らないだろう。私たちの心に聞こえてくる声かもしれない。
詩篇にはこのような言葉がある。詩篇95:7 まことに主は私たちの神。私たちはその牧場の民その御手の羊。今日もし御声を聞くなら95:8 あなたがたの心を頑なにしてはならない。聖書の中で、主は私たちの牧者であり、私たち人間は羊に例えられている。牧者はそれぞれの羊をよく知っており、羊も牧者の声を聞き分ける。
私たちは神ではない者の声に耳を傾けてはならない。ヨハネ10:3 門番は牧者のために門を開き、羊たちはその声を聞き分けます。牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します。牧者である神は私たち一人一人を愛しておられるが、羊である私たちも、神を信頼し愛するがゆえに、神の声を聞こうとするのである。サムエルは主を愛し、主に仕えていた。だからこそ、「主よ、お話しください。しもべは聞いております。」と言うことができたのである。

結び

サムエルは主を愛し、主の御声に耳を傾けた。私たちも神様を愛し、主の御声に聞き従っていこうではないか。