立派な信仰とは何か?

礼拝メッセージ

2021/9/5 礼拝説教
【テーマ】  本物の信仰
【説教題】 「立派な信仰とは何か?」
【聖書箇所】 マタイ15:21-28

15:21 イエスはそこを去ってツロとシドンの地方に退かれた。
15:22 すると見よ。その地方のカナン人の女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が悪霊につかれて、ひどく苦しんでいます」と言って叫び続けた。
15:23 しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。弟子たちはみもとに来て、イエスに願った。「あの女を去らせてください。後について来て叫んでいます。」
15:24 イエスは答えられた。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません。」
15:25 しかし彼女は来て、イエスの前にひれ伏して言った。「主よ、私をお助けください。」
15:26 すると、イエスは答えられた。「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。」
15:27 しかし、彼女は言った。「主よ、そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」
15:28 そのとき、イエスは彼女に答えられた。「女の方、あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように。」彼女の娘は、すぐに癒やされた。
15:29 それから、イエスはそこを去ってガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして山に登り、そこに座っておられた。

マタイ15:21-28

○ 皆さんは何か信仰をお持ちですか? その信仰は立派な信仰ですか? でも立派な信仰とは何でしょうね? 何かの像の前でひれ伏したり、座って手を合わせていたりすると立派な信仰なのでしょうか? あるいはキリスト教の神学的な話をすることができると立派な信仰なのでしょうか? 今日ここに登場する女性はイエス様から あなたの信仰は立派です と言われた人です。

必死なら立派な信仰か?

娘のために必死の母親

    1.この母親はユダヤ人ではありません。カナン人と書いてあります。マルコの福音書ではギリシア人で、シリア・フェニキアの生まれとあります。その母親がイエスの所に来ました。ある意味宗教を越えてイエスに助けを求めたということでしょう。
    2.どのような助けを求めたかというと、娘が悪霊につかれているので悪霊を追い出して欲しいということです。ここもマルコの福音書では彼女の幼い娘は、汚れた霊につかれていたとありますので、幼い娘だとわかります。母親にとって(父親でもそうですが)子どもが苦しんでいるのを見るのはどれほど辛いことでしょうか。ましてや医者では治しようのないときには、失望に満ちてしまいます。

癒しを求めるのが立派な信仰か?

    1.母親は自分の信じていた神々に頼ってきたはずだと思います。しかし、何をもってしてもどうにもならないために母親は宗教を越えてイエスの所に行ったのでしょう。そしてイエスによって娘は癒されます。それが立派な信仰でしょうか?
    2.しかし、私は反対のこと、教会を離れてある宗教に行って癒された人をを知っています。確かに一時病気は治ったけれども平安が無かったと言われました。教会に戻ったきた彼女は病気と向かい合いながらも平安を取り戻されました。何が立派な信仰なのか少し見えてきましたね。

食らいつけば立派な信仰か?

イエスが無視する??

    1.マルコの福音書には だれにも知られたくないと思っておられた とあるようにイエスはこっそりとそこに来ておられました。しかし、噂はすぐにこの母親に伝わり、じっとしていることができず、イエスの所に飛んで行きました。そして、助けて欲しいと頼みました。
    2.しかし、何と私たちクリスチャンも疑うような言葉が書かれています。 イエスは彼女に一言もお答えにならなかった と。無視でしょうか?初めて聖書をここまで読んだとき、イエス様ってそんな方だっけ? とガクッときました。もちろん、その後を読んでホッとするのですが、なぜすぐに娘から悪霊を追い出してあげなかったのか疑問でした。
    3.聖書ってわからないところが結構たくさんあります。どうしても私たちの常識だけでは理解できないことがあります。しかし、罪から救っていただけること自体が私たちの理解を超えたことだと思うのです。

腹を立てても食らいつくのか?

    1.その後、イエスの語られた言葉は わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません と 子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです でした。私にはさらにわからない話で、全く優しさの無い言葉に感じられました。母親を犬扱いまでしています。多くの人は腹を立てるのではないでしょうか?
    2.彼女は腹を立てたのでしょうか? 大事なのはその後の母親の言葉でした。 主よ、そのとおりです と、まず自分を小犬扱いされてもその通りだと認めていることです。彼女の次の言葉はすごいです。 ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます なんとすごい言葉かと思います。この言葉は腹をたてながら言っている言葉でしょうか?

イエスの愛を受け止めるのが立派な信仰

イエスに愛を感じている

    1.小犬というのは愛玩犬として飼われている犬らしいのですが、その小犬は飼い主が食卓からパンを与えたみたいです。小犬でもそういうパンはいただきます、というわけです。
    2.彼女はここで自分を犬扱いしていると腹を立てたのではなく、飼い主に愛されている小犬ととらえています。飼い主は小犬のことをかわいいと思っている優しい方だととらえています。彼女はイエスを小犬の飼い主のように優しいお方と思っているのではないでしょうか? 
    3.そして、イエスは彼女にイスラエルの神がどのような神だと思っているのかを答えさせようとなさったのです。もちろん、イエスには彼女が思っていることはわかっておられました。でも、彼女の口から言わせることが必要だったのです。そうです。言わねばならないのです。告白ですね。

イエスがそこにいなくても愛は通じる

    1.その彼女の告白を聞いたイエスは 女の方、あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように と言われたのです。彼女はイスラエルの神はこんな小犬のような私をも愛してくださっていると信じているのがすばらしい信仰なのです。
    2.その時、彼女の娘からは悪霊が抜け出ていたのです。イエスが娘のところに行って、「悪霊よ出て行け」とは言われていません。でも、彼女の信仰が悪霊を追い出したわけです。信仰はそこに神を呼び下すのです。臨在と言うのでしょうか? 神が共におられるのです。ですから、悪霊はそこにおれなくなるのです。
    3.このような母親に育てられた娘は何を覚えるでしょうか? 母の愛、母の信仰、そして、その母の口から語られるイエス。この娘もまた立派な信仰を持ったのではないかと想像するのです。

★ 立派な信仰とはただがむしゃらであれば良いのではありません。自分がどのように言われようが、その方が自分を愛してくださっていることを心から受け止め、その愛に応えるところにあるのです。