心から受け入れる
受容確信
「受け入れる」「受容」という言葉は教育やカウンセリングの世界でよく使われている言葉だと思います。皆さんも聞かれたことがあると思います。その言葉を知っていても、その言葉の持つ意味を実行できているかと言われるとそれは疑問も多いのではないでしょうか?
子どもが何かをした時、それが良くできると受け入れるけれども、上手くできないと受け入れないとしたらどうでしょうか?また、成績が良かったら受け入れるけれども、悪かったら受け入れないとしたらどうなるでしょうか?
子どもはどんな場合でも受け入れられているという確信を得ることによって健全に成長するのです。失敗しようと成績が悪かろうと受け入れられているという確信が子どもには必要なのです。
では「幼い子を持つ親のための7章」(いのちのことば社)から、子どもが受け入れられていないと感じる時と受容感を深める時を参考にさせていただき、見ていきたいと思います。
受け入れられていないと感じる時
a.絶えざる非難
いつも非難されている子どもは不全感と拒否感、また自分は無能者だという意識をもつようになります。
親からいつも文句をつけられて、自分のしたことを正しいという自信を持てない子どもがいます。それはさらに不安を感じる生き方になり、大人になって仕事をするようになっても、仕事の自信も確信ももてなくなるのです。
b.比較
みんな違ってあたりまえなのですが、なぜか比較してしまうものです。運動能力、学力、音感、身長、挨拶の仕方等々何でも比較の対象になってしまいます。ここには劣等感、そして間違った優越感が生まれるのです。
c.子どもに親の夢を託すこと
親は善意で自分ができなかったことを子どもにはさせてあげようと思うのですが、このことが強く感じられると子どもは自分が親の手段に過ぎないことを発見するのです。
d.過保護
子どもは護られすぎると、自分は信用されていない、受け入れられていないと思うのです。
e.過度の期待
子どもは親が暗に自分に対して願っていることを察知するもので、正しい自己受容・自尊心を育て損ねることがあります。
子どものやることが正しかろうと間違っていようと、子ども自身を愛する態度が大切なのです。
子どもはどのようにして受容感を深めるのか
a.ユニークな存在であることを認める
「同じように育てたのに、どうしてこの子は・・」という話をよく聞きますが、子どもはみんな違うのです。違うというあたりまえのことをしっかり認めるのです。
b.達成感を与えること
親はそっと手を貸し、過保護にならない程度に助けると子どもは上手くできることが多いです。そして自分でできたという達成感を持つようになります。
c.子どもに愛を伝えること
子どもは神様からの賜物です。決して、偶然に生まれたとか、親の生活に邪魔な存在だというような印象を与えてはならないのです。
d.子どもの友達を大切にすること
子どもの友達を評価し大切にすることで、親は子どもを受け入れていることを示しているものなのです。
e.子どもとの間に誠実で真実な関係を維持すること
親が失敗や過ちを犯してもそれを素直に認めることです。親や大人も完全ではないことを知らせるのです。それが不必要な緊張から解放してくれます。
f.子どもの言うことをよく聴くこと
子どもの話を聞くことは誰もがすることなのですが、子どもが自分の伝えたいことを、心の本音まで聴いてもらえたと言えるところまで聴くことが大事なのです。
g.子どもを一人の人格をもつ人間として認めること
「その人に早く一人前の人間になってもらいたかったら、できるだけ早くその人を一人前に処遇すべきである」
ジョン・ロック
h.一人一人に独自の成長の仕方がある
わが子が他の子どもと発達の違いがあるかも知れません。しかし、たとえそれが発達障害や知的障害であったとしてもその子はその子であり、神様に愛されている大切な子どもです。
「あなたの子どもを受け入れなさい。そして一人一人があるがままで特別な存在であることを喜ぶようにしなさい」
心理学者・デュヴァル
以上「幼い子を持つ親のための7章」を参考にして見てきましたが、子どもたちが、親から自分が受け入れられていないと感じることがどのような時に起こるのかおわかりいただけたのではないと思います。また、その反対にどうすると受け入れられているという確信を深めるかもわかっていただけたと思うのでです。
ザアカイよ、降りてきなさい
私はこの本を読んでいて、イエス様の私たちに対する愛の行動を感じたのです。イエス様は人々から見放されたような人を愛されました。たとえばルカの福音書19章を見ると、ザアカイという金持ちが登場するのですが、彼は人々から嫌われていました。そのザアカイをイエス様は受け入れていらっしゃるのです。
少しその様子をお話ししますと、
ザアカイは金持ちでしたが、幸せではありませんでした。彼は取税人と言ってローマ皇帝に治める税金を集める人でした。それだけなら問題は無いのでしょうが、ユダヤ人は自分たちがローマ帝国の支配下にあることに屈辱感をもっていました。そのローマ帝国に税金を納めなければならないのですが、その税金取りが同じユダヤ人ザアカイであることに腹が立つのです。しかも、ザアカイはローマの権力を笠に着て、必要以上のお金を同胞ユダヤ人から巻き上げたのです。その多額の差額は自分のものとしたのです。
文句を言いたくても言えないユダヤ人たちは同胞といえどもザアカイを売国奴のように扱っていました。ザアカイは大金持ちになりましたが、ますますユダヤ人からは嫌われ、仲間・友達のいない人となっていったのです。
大金持ちになったザアカイは心も裕福であったかというとそうではありません。友達がいないこともそうですが、満たされない心、うつろな毎日、彼は生き方を変えたかったのですが、それができないで苦しんでいました。誰にも受けれてもらえないでさみしい、辛い毎日を送っていたのです。彼は誰にも自分の気持ちを理解してもらえないと思っていたのです。この空虚な心のままで一生を終えるのかとあきらめの人生を送っていたのです。
そんなところにイエス様がお出でになりました。町の人々はイエス様のうわさを聞きつけて集まっています。彼もイエス様に会いたくて来たのですが背の低いザアカイには見ることもできませんでした。木の上に登って見ているとイエス様は見上げて「ザアカイ、降りてきなさい」と彼の名前を呼ばれたのです。「なぜ、俺の名前をしっているんだ?」とびっくりしながら降りてきました。イエス様はそんなザアカイと友達になりたいと言われるのです。町中の人々は「イエス様ともあろうお方があんなひどい奴と友達になるなんて!」とイエス様に対してがっくりきたようです。
しかし、このことでザアカイは心を開くことができました。彼はイエス様とお話しをし、不正で得た収入は4倍にして人々に返すこと、貧しい人達に施しをすることを約束したのです。
イエス様がザアカイを受け入れたことで、一人の虚しく過ごしていた人を生き返らせたのです。
受け入れられて変わる
私の教え子で病気のために学校に来れないことが多かった生徒がいます。そのために高校に行けませんでした。家に閉じこもった彼女でしたが、幸いにもご両親は彼女のことを受け入れてくださっていました。
ある日、彼女は教会に来ました。そこでイエス様にも受け入れられていることを知ったのです。その日から彼女は閉じこもらず、教会に来るようになり、なんと定時制高校にも進学したのです。
私たちも子どもたちもイエス様に受け入れられていることを知ることが大事なのでしょうね。