イエスの御名によって
説教者:佳子師
2024.2.18礼拝
テーマ: 御名の力
説教題: 「イエスの御名によって」
テキスト: 使徒の働き 3:1〜8
3:1 ペテロとヨハネは、午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。
【新改訳2017】
3:2 すると、生まれつき足の不自由な人が運ばれて来た。この人は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」と呼ばれる宮の門に置いてもらっていた。
3:3 彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。
3:4 ペテロは、ヨハネとともにその人を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。
3:5 彼は何かもらえると期待して、二人に目を注いだ。
3:6 すると、ペテロは言った。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」3:7 そして彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、
3:8 躍り上がって立ち、歩き出した。そして、歩いたり飛び跳ねたりしながら、神を賛美しつつ二人と一緒に宮に入って行った。
使徒の働き3:1〜8
イエスの姿はない
イエスがおられた時、ペテロは数々の奇跡を目にしたことだろう。人々が癒され、命が与えられる御業を見てきた。それは、イエスご自身の力によるものだった。だが、そのイエスの姿はもう見られない。イエスは十字架の死から復活し、弟子たちの前に現れてくださった。しかし、天に昇られ、その姿はないのだ。ただの人間であるペテロたちに何ができるのか。イエスは天に昇られる前、約束の聖霊を待てと言われた。そしてその約束通り、聖霊が送られたのである。ペンテコステの日、約束を待ち望んで祈っていた彼らに聖霊が降られ、弟子たちは力を受けた。
現代に生きる私たちは、イエスの姿を見たことはない。にもかかわらず信じているのはなぜだろう。自分でも不思議である。信じる人はだれでもそうだと思うが、イエスはいないといくら言われても、それを肯定する事はできないのだ。イエスは目には見えない。けれども生きておられる。それは私たちのうちにある聖霊が確信させてくださる。(ヨハネ14:17 この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。)
信じる者が持っているもの
足の不自由な男は他の人に求めるのと同様に、ペテロたちに施しを求める。もちろん彼らにお金などない。ペテロは男に「私たちを見なさい。」と言った。男は施しをしてもらえるのかと思い、彼らをじっと見つめた。ペテロたちは身なりからして金持ちには見えなかったであろう。ペテロは彼に、自分たちが与えようとしているものがお金ではなく、自分たちが信じているものが何かを見て欲しかったのである。それこそが、彼に最も必要なものを与えることができるのだった。
彼の日常は美しの門まで他の人に運んでもらい、施しを受けることだった。一日にもらえるお金はわずかであったろう。それはすぐになくなって、また物乞いをする。そんな日々を過ごしていた。しかも自力ではできない。彼はまず歩けるようにならなければならなかった。歩けるならば、物乞いの必要もなく働くことが可能になる。ペテロは「金銀は私にはない。しかし私にあるものをあげよう。」と言った。ペテロが持っているものとは何だったのか?それは、「イエスの御名」であった。私たちは無力な人間に過ぎないが、神を信じる時「イエスの御名」による信仰を与えられるのである。
主の御名の力
奇跡は「イエスの名」によって起こった。ペテロ自身には「生まれつき歩けない人」を歩かせる力はない。たとえ、彼の右手を取って引き上げたとしてもそれだけで歩けるようにはならない。手を離したとたん、彼は倒れてしまうだろう。ペテロは手を貸しただけだった。ただ「ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」と言ったことで、彼は歩けるようになった。名前は固有名詞というだけでなく、実質を表している。イエスの名によってとは、イエスご自身によってという意味なのである。
イエスはかつて「わたしの名によって父に求めるものは何でも、父はあなたがたに与えてくださいます。今まで、あなたがたは、わたしの名によって何も求めたことがありません。求めなさい。そうすれば受けます。」(ヨハネ16:23,24)と言われた。イエスの名によって求めるなら、神は与えてくださる。この奇跡は、神が「すべての名にまさる名」(ピリピ2:9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。)をお与えになったイエス・キリストによってなされたのである。歩けるようになった男は、この後ペテロたちと共に宮に入り、神を賛美する。彼らを見た人々は驚いて集まってきた。そこでペテロは、イエスの復活とこの奇跡が自分によるものではないと語る。この御業は、イエスの御名、「その名を信じる信仰のゆえに」起こったことであると。
こうした話によって男だけで五千人もの人々が主を信じたのだった。
結局、この癒しが発端となり、ペテロたちは逮捕され議会の審問を受ける。ペテロはそこにおいても復活とイエスの御名のすばらしさを語る。議場にいた人々は、癒された男が彼らと共にいるので反論のしようもない。また大勢の人々が主を信じたので、その群衆が暴動を起こすことも恐れたであろう。それで、ペテロたちを釈放し、その際に今後いっさいイエスの名によって語ってはならないと戒めた。これは信じていない者までが、主の御名の力を知ったということに他ならない。
結び)
今回は「イエスの御名」の力を見てきた。その名を信じる信仰が、神の業を起こすことに心から感謝したい。
Posted by shinnakano
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