
神が私たちに望むこと
2025.2.16 礼拝
テーマ: 光の子どもとしての歩み
【説教題】神が私たちに望むこと
【聖 書】Ⅰテサロニケ5:14-22
【説教者】藤井佳子牧師
5:14 兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠惰な者を諭し、小心な者を励まし、弱い者の世話をし、すべての人に対して寛容でありなさい。
5:15 だれも、悪に対して悪を返さないように気をつけ、互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うように努めなさい。
5:16 いつも喜んでいなさい。
5:17 絶えず祈りなさい。
5:18 すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
5:19 御霊を消してはいけません。
5:20 預言を軽んじてはいけません。
5:21 ただし、すべてを吟味し、良いものはしっかり保ちなさい。
5:22 あらゆる形の悪から離れなさい。
【新改訳2017】Ⅰテサロニケ5:14~22
A. 『テサロニケ人への手紙Ⅰ』について
テサロニケの教会は、パウロが第二次伝道旅行の際、わずか3 週間の伝道で生まれた教会である。その信徒は、少数のユダヤ人と多数のギリシア人改宗者とからなっていた(使17:4,1テサ2:14)。パウロはこの若い教会を十分に育てる間もなく、激しい迫害によってテサロニケを離れざるを得なかった。そのため彼らは再臨(Ⅰテサ4:16)について誤った理解をしてしまったのである。 そこでパウロは、彼らの誤解を解くためにこの手紙を書いた。その解答は、4章、5 章に記されている。①再臨が近いからといって、自分の仕事を怠けてはならない。教会員以外の人々に対してもりっぱにふるまい、また貧しくならないためだ。②再臨の時には、すでに死んだ者たちが最初によみがえるので、彼らのために心配する必要はない。③再臨は夜中の盗人のように来るが、慎み深く、聖く生きているならば、いつ来られてもあわてなくても良い。
B. 光の子どもとして
「Ⅰテサ 5:5 あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもなのです。私たちは夜の者、闇の者ではありません。」私たちは救われる以前、闇の中にいる者だった。しかし今は、「世の光」であるイエス(ヨハネ8:12)と共に生きている。だから、私たちは光の子どもなのである。パウロは、主イエスの再臨は、「夜中の盗人のように」突如として来ると明言している。寝ていてはわからないので、いつも「目をさまして、慎み深くして」いる「光の子ども」でなくてはならないと語っている。だれでも肉体的に眠る時はある。でも、主イエスから与えられた信仰と愛と望みを堅く抱いている「光の子ども」は、常に霊の目が開いているので、いつ再臨があってもあわてることはない。
C. 神が私たちに望むこと
(1) 教会として(5:14,15)
テサロニケ教会には、「怠惰な者」や「小心な者」、「弱い者」がいた。これはどこの教会でも同様であろう。教会では、これらの人々に対して愛による励ましが必要である。しかし、こうした人々を教会の中で受け入れていくことは容易なことではない。むしろ非常に忍耐を要する。世の中では、役に立たない人々は次々と切り捨てられてしまう。が、教会までがそのようであってはならない。
パウロは、人間関係の最も基本的なあり方を「すべての人に対して、いつも善を行うように努めなさい。」(:15)ということばで要約している。「悪に対して悪を返して」(:15)いては何も解決しない。光の子ども、昼の子どもは、悪に対して黙って耐えるのではなく、むしろ善をもって悪に打ち勝つのだ。
(2) 主を信じる者として(:16,17,18)
私たちは、日常生活の中で不満や愚痴は無意識のうちに次々と出てくるものである。だが、喜びや感謝は意識しないと見いだせない。それだけにこの聖句は私たちの心に新鮮に響くと同時に、私たちの心を強くとらえる。そして、この喜びと感謝は、祈りと密接に結びつけられている。私たちは問題が起きると、つい自力で解決しようと、自らその問題を背負い込んでしまう。しかしそれには限界がある。私たちは、まず祈り、神に委ねることをすべきである。それによって私たちの重荷は解かれ、感謝と喜びが湧き上がるのだ。絶えず祈るという祈りの積み重ねは、感謝と喜びを生み出すのである。
(3) 主の教会を建て上げるために(:19,20,21,22)
しかし、喜びと感謝にあふれた生活は、何でも許容するお人好しの生き方ではない。「すべてを吟味し、」(:21)とあるように、識別力を養う必要性が強調されている。ここでは特に、御霊と預言に関して語られる。聖霊を悲しめたり軽視したりして、聖霊に満たされて歩むことをやめないことへの戒めである。また、「預言を軽んじてはいけません」(:20)は神のことばの解き明かしを重んじて聞き従うことを言っている。
この御霊と預言の働きは、主の教会を建て上げるために絶対に不可欠なものであるが、その分だけこの分野には偽物が巧妙に入り込んでくる。現代は本物と見紛うほどに良くできた偽物が横行している。信仰の世界でも種々の異端的教えがはびこっている。世の終わりが近い今こそ、真に良い物を見分ける力が必要なのである。
終わりに
再臨はいつ来るのか、それは誰にもわからない。しかし、私たちは光の子どもとして、今回の御言葉を覚え、動じることなくしっかりと歩もうではないか。それこそ、神が私たちに望んでおられることなのである。
Posted by shinnakano
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