自分のことは自分でする
あの頃が懐かしい
皆さんは子どもさんが小さかった時を懐かしく思い出しますか? まだ、そこまで子どもが大きくなっていないというご家庭も多いかも知れませんね。
私のところは懐かしくなってしまいました。よそのお子さんを抱っこしたり、手を繋いで上げたりした時に、ふとうちの子達が小さかったときのことを思い出すのです。
子どもが大きくなると第一反抗期の時期を懐かしく思い出すものです。靴を履かせようとしても「自分でやる」と言って時間がかかって大変だったことや、せっかく留めてあげたボタンを「自分でやりたかった」と全部はずして自分でやりなおしたりして大変だったことを思い出すのです。
うちは第一反抗期どころか、第二反抗期もそろそろ懐かしくなってきたかも知れません。
過干渉
ある幼稚園でトイレを済ませた園児が水道の所で手を出してジッとしているので、先生が「どうしたの?」と聞くと、「水出して」と言うのです。「自分で出しなさい」と先生が言うと、怒って「出して!」と叫ぶのだそうです。家でお母さんが水を出してあげていたそうです。
このような話は結構色々聞くものです。何でも子どもにして上げることを何と言うのでしょうか? 「過保護」でしょうか? そう呼んでいる人も多いですし、本にもそのように書いているのもあります。
敢えて言うと、こういうのは過保護というのでは無く「過干渉」というのだと思います。本人がすべきこと、できることに干渉し過ぎるのです。そういうことを続けていると、その子はどんな大人になっていくのでしょうか?
わがままに育った子
中学校で教えていた頃、わがままな生徒がいました。あだ名さえ「わがまま」とつけられたような生徒でした。決して彼は悪い子では無いのですが、自分の言い分が通らないと決まったこともしない、ふてくされるということで、クラスの雰囲気を悪くするのが上手でした。友達はいないわけではありませんが、口喧嘩になることがしばしばでした。
こんな風になったのには何かわけがあるのではないかと思い、原因を調べてみました。もちろん、すべてがわかったわけではありませんが、見つけることができたのは、幼い時に十分甘えられなかったことがありました。
子どもの側では甘えられなかったのですが、お母さんの側ではよい子になって欲しくて、過干渉があったらしいのです。「お返事をしっかり!」とか「甘えちゃダメ」とかですね。子どもが甘えて抱きつきに来ても突き放すことも多かったみたいで、お母さん自身、子どもを抱きしめることが苦手になっていたみたいです。
思春期の問題は幼児期の過ごし方、親子の接し方などに起因するものが多いのではないかと思います。彼の場合、甘えるべき時期に「よい子になって欲しい」と願うお母さんによって、しっかりと抱きしめてもらうような体験が無かったのです。
反面、お母さんはきちんとさせたくて彼が自分ですべきことも先取りしてやってしまっていたようですね。その反動が思春期に出てきたのです。思春期に見られる諸問題、精神的な病気などにもそうした幼児期の親子関係が起因することがあるのです。
任されることから「愛」を学ぶ
幼児期に愛され、受け入れられている体験は十分に持って欲しいものです。親に対して依存している時期はその依存から「愛」を受けとり、「自分でする」時期には任されていることで「愛」を学ぶべきなのです。
この受容されている体験が十分あると、自分のことは自分でするという力が身についてくるのです。同時に責任感も身についてきます。親にやってもらうことに慣れてしまった子どもは「責任感」が薄く、問題が起こると親や人のせいにしてしまうのです。問題を解決していこうという前向きな姿勢そのものが無く、「自分は悪くない!」と責任転嫁ばかり考えてしまします。
お手伝いなどを任されて、それをすることで褒められると「やる気」が増してきますし、責任感も増します。そして、上手くできなくても「愛」を持って任せていくことで落ち込まないですみます。
こうして任されることで自立につながるだけで無く、「愛」も学んでいます。成長していくと人に対して穏やかに見てあげられるようになります。
自己責任を間違えないように
自分のことは自分で・・・ということの中には、自分の感情の責任も伴います。自制することは大事な事です。「欲しいから盗んだ」「みんなしているから自分もした」「むらむらっと来たから抱きついた」「好きになったからセックスした」ということでいいでしょうか?
自分のことは自分でというのは、「セックスして赤ちゃんができたけど、困ったから中絶した。その費用は援助交際で得たお金。全部自分でやったので、誰にも迷惑をかけてないからいいだろう」ということがあったとして、それが自分のことは自分で責任をもってしたということになるでしょうか? 子どもは時として自己責任を勘違いしてしまいます。
仮に人に迷惑をかけていなかったとしても神様に対して申し訳ないことをすればそれはいけないことなのです。「神の聖霊を悲しませてはいけません。」(エペソ4:30) とあります。境界線をしっかり学んでいくと自分と親、他人、神様との関係もわかってきます。
私たちの方が先に死ぬ
やはり教師時代のことですが、障害を持っている生徒がいました。彼女は知能も行動も幼児ほどでした。時々ませたことを言うのですが、やはり中学生とはほど遠い感じでした。でも、いつもニコニコして穏やかな生徒なので、他の生徒達から嫌われるということは無い生徒でした。
中学校の教師というのは本当に人の人生の中途半端な一時期だけを見ているなあと思いました。ほとんどの生徒が中学校を卒業すると高校に行き、さらに多くが大学に行き、社会人になり・・・と成長して行くのです。ですから、まだまだ先があるように思い、決して中学三年間を軽く見ているつもりはありませんでしたが、彼らの人生を共に背負うほどには感じていませんでした。また、私は彼女を担任したわけでは無かったので、よけいにそうだったように思います。たとえ担任したとしても、私にはやはり中学校の三年間だけのつきあいとして終わらせたことでしょう。
ところが、彼女の担任をされた先生が、彼女のご両親と真剣に将来の話をされているのを見ました。それはとても真剣でした。彼女は中学校を卒業すると、みんなと同じようには高校に行けません。一つの方法は養護学校の高等部です。そちらを選ばれたようですが、また三年後には進路を悩まねばなりません。
つまり、彼女は結婚も難しい、就職も難しいのです。彼女の一生を両親が面倒見ていくと言っても、ご両親は「自分たちの方がたぶん先に死ぬでしょう」と。さらに、「あの子が先に死んでくれたらとも思ってしまうのです」とも。
数年経って、私は彼女を担任されたあの先生と道で会いました。私は牧師になっておりました。「お久しぶりです」と挨拶して、その先生が教師を辞められたことを知りました。事情は色々あったようです。
そして、彼女のことが話に出ました。彼女はすぐ近くの作業所に通っているとのことでした。しかも、なんとその先生もそこにボランティアで行っていらっしゃったのです。
私は見学させていただくことにしました。後日、作業所を訪れましたら、中学校時代と何も変わらないような彼女が作業所のテーブルの前で一所懸命作業をしているのです。そのすぐ横にあの先生がいらっしゃいました。中に入って行くと彼女は私を覚えていてくれて「あ、藤井先生だ!」とニコニコして迎えてくれました。
しばらく小さな作業所の中で働く彼女や他の数名の障がい者の方々の仕事を見ていました。ゆっくりした動作で、ゆっくりとしかできあがらないのですが、誰も怒ったりしません。同じ事を何度もしている彼女はあの持ち前の笑顔がありました。
ご両親は彼女が少しでも自分でできるようにと、彼女が小さいときから心がけていらっしゃったそうです。自分でできることは全部自分でやらせて、できたら一緒になって喜んだそうです。でも、できないことの方が多くて、親子で泣いたそうです。それでもめげずに「できることはやらせる」と決めて頑張られたそうです。作業所にはお母さんはおられませんでした。「親がいなくても、色んなことが出来る子になって欲しい」と。それは「私たちの方が先に死にますから」というあの考えから、時には厳しく彼女にさせてこられたようです。
イエス様が天に帰られた後の弟子たちの活躍を思い起こしました。