自分を振り返ってみれば 7
子どもが好きなだけでは
中学校の教師生活が実に充実しており、神様の祝福のうちに恵みいっぱいの教師時代を過ごせさていただきましたから、牧師になるために神学校に入った私は、神学校も何の問題もなく過ごせると思っていました。
ところが、子どもが好きというだけの私には大変なところでした。
その始まりは、教師をいよいよ辞めるという時でした。3学期も終わりに近づき、退職の手続きも済ませ、美術科の引き継ぎ、生徒会の引き継ぎ、陸上部の引き継ぎを行い、あらゆることを片付けていくとなると、その忙しさはすごくて睡眠時間が少なくなってしまいました。
6年間の教師時代には有給休暇をほとんど捨てるような教師で、学校大好きの私は体調を悪くすること無く、ほとんど休むことが無かったのです。が、この最後に来て、胃腸がおかしくなってしまいました。遂に医者にかかるのですが、胃潰瘍の可能性があるから病院に行くように言われたのですが、その時間がとれなくて、ほったらかしになりました。
神学校に荷物を送り、いよいよ東京に向かうという頃、体はだるく、微熱があるような変な状態になっていました。お医者さんは「東京に行ったら、すぐに病院に行くように」と言ってくださったのですが、神学校が始まったら、その忙しさにとても病院に行けませんでした。
実家を離れる期待
両親に別れを告げて、東京に向かったのは28歳でした。何度も家を出たいと思ったのですが、経済状態の悪いわが家でしたので、それもできなかったのと、幸いかどうかわかりませんが、務めた中学校も家から通えたので、28年間高槻の実家に暮らしていたので、初めて親元を離れたのです。
体調のことだけが心配でしたが、家を出たこと、これからの神学校生活(寮生活)を思うとワクワクしていました。
あの入学テストと面接では絶対に不合格だと思っていた神学校にまたやって来ました。その門を見た時、もう二度と見ることの無い門だからとパシッと叩いて帰った11月の試験の日を思い出しました。今度は「よろしく」と心の中で言って、中へと進んでいきました。
楽しい寮生活
古い昔の建物が寮でした。ぎしぎしと音を鳴らしながら2階に上がり、先輩と会いました。明日の入学式の準備をほとんど終えて、私たち新入生を待ってくださっていました。と言っても、先輩はたった10名です。最上級生は女性だけでそれも3名だけでした。私たち新入生は8名(女性は1名、とてもかわいそうでした)。
念願の親元を離れての生活が始まり、私にとってはとても楽しいものでした。そういう楽しさもあってか胃の状態が少し良くなったような気がしました。しかも神学校に来たので、神様が癒してくださるのではないかと甘い期待もありました。三食出る寮生活は大変ありがたかったですし、まかないをしてくださっていた方は料理が上手で本当に美味しかったです。
しかし、授業は大変でした。実は、私が大変というより、先生方が大変だったと思います。私は本当に知識不足で、英語もできなくて、あらゆる授業の落ちこぼれでした。初めて生徒達が落ちこぼれる辛さを味わった感じです。
ここで負けてたまるかと一念発起! 頑張って見るのですが、前にも書きましたように私は記憶の点でどうも問題があるようで、なかなか覚えられないのです。でも、私は授業に出るのが楽しくてなりませんでした。何もかもが新しいので、ワクワクしているのです。
学ぶ事々に質問が湧いてきて、先生にかなりご迷惑をおかけしましたが、その質問したことが実際の牧師生活に生きています。
神学校の生活は火曜~土曜日(午前中)までは授業があります。日曜日は牧師としての訓練で各教会に派遣されて実地訓練です(見学や、色々な奉仕、説教等をします)。月曜日は神学校内の色々な作業をしたり、みんなで楽しくハイキングとかでした。
楽しさが消えていく
楽しく過ごし始めたのも束の間、あの胃の不調が起こり、腰にも痛みとだるさが襲ってきました。階段はゆっくり手すりを伝って上がる羽目になり、椅子の背が腰のあたりに当たるとビーンと痛みました。「あー、ダメかも知れない。神学校での学びが続けられないかも知れない」と何度も思いました。ただでさえできの悪い学生です。「これで授業を休んだら終わりだ」との思いが押し寄せてきます。後期に入って、一進一退の体調のままでしたが、神様は本当に私を愛してくださっています。
すばらしい出会い
吉野清一郎先生という盲目の牧師が、私を昭島市のご自宅に呼んでくださったのです。「中学生のための集会をして欲しい」ということでしたので、私は喜んで行きました。中学生と楽しく過ごし、帰り際に先生は「藤井さんはどこか悪いところがありますか」と言われ、「はい」と答えた私に鍼を打ってくださいました。初めての体験でしたが、大変心地良く、体が少し楽になりました。
吉野先生は学校側にお話ししてくださって、毎週土曜日、授業が終わると吉野先生のところに鍼治療に行けるようにしてくださったのです。2年ほど通いました。お陰で私の胃は癒され、腰の痛みは消えました。私の大恩人なのですが、未だに何の恩返しもできずにいます。
こんなすばらしい出会いをくださったのも神様です。他にもたくさんのすばらしい思い出ができました。
現場へ
教師時代のあの元気な体は失いましたが、なんとか元気になって神学校を卒業しました。今度はいよいよ現場です。あの教師時代とはまた全く違った現実が目の前にやって来ました。
前任者が頑張ってこられた高槻キリスト教会はまだ借家住まいでいた。でも、人は多く集まるようになり、礼拝は高槻センター街の会議室をお借りしました。毎週日曜日はそこに荷物をもって行き、礼拝や諸集会を行いました。
平日は小さな借家ですので、願われる家庭に出かけて家庭集会(出張礼拝)をさせていただきました。毎月15日間は出かけていました。
この家庭集会の一つから「子育ての会」のもととなるものが始まったのです。お子さんの相談を受けたことがきっかけになって、もっと子どものことをお話ししようということになり、教会で始めた「子育ての会」は5カ所に増え、幼い子どもから思春期の問題まで話し合うようになりました。
大学4年の時に卒論で悩んだ時に、教授から「思春期のことはライフワークにしたらどうだ!」と言われたことを再び思い出したのです。20数年間子育ての会を行い、私自身も皆さんのお話を聞き、また、相談を受け、大変勉強になっています。
初期の子育ての会
初期の頃の子育ての会は、私自身が親となったばかりで、皆さんにお教えできるようなことは無く、思春期のことを話ながら、赤ちゃんや幼児のことを調べ始めた時でした。実はこの時があったから、私はさらに神様が人間をお造りになり、すばらしい発達をして行くのだということを知ることになったのです。
何と言っても、幼児期にある「第一反抗期」と思春期にある「第二反抗期」が密接な関係にあること、しかも「第一反抗期」を上手に過ごすと、「第二反抗期」も上手く過ごせる率が高いことに気がついたことは個人的に感動しています。そこで、子育ての会でできるだけ思春期、第二反抗期を大変な過ごし方をしなくても良いように、第一反抗期の時期の親子のあり方、子どもの生活習慣を友に考え、お教えできることはお教えしたいと思ったわけです。
初期の子育ての会は、私自身子育てが手探り状態でしたから、お母さん方と色々話し合いながら考えたものです。
また、その頃、多くの相談を受けていました。それが私の勉強になったのです。その内容は、またお分かちしたいと思います。