真似る・学ぶ
まず自分の目から
聖書には、日本人にも知られている有名な言葉がたくさんあります。次の言葉を聞かれたことはありませんか?
「また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。 兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。 偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」
マタイの福音書 7:3-5
目の中の「ちり(ごみ)」に対して「梁」という大木のようなものが自分の目の中にはあるではないかと言われるイエス様の面白い言い方でもあり、また厳しい言葉です。
これは当時のユダヤの指導者たちにあてて言われた皮肉な言葉です。
指導者たちは口では立派なことを言っていましたが、実は聖書を正しく実行せずに、民衆に対して厳しく裁いていました。指導者達は、民衆は正しい行いができていないと言うのです。しかし、彼ら指導者は律法を自分たちに都合良く解釈して、言い逃れをしていたのです。その上で「自分たちは正しい」と言っていました。
そういう指導者たちにイエス様は当てつけて言われたわけです。「あなた方の目の中にはゴミどころか、大木があるではないか! 人々の目の中にあるゴミばかり目についても、自分の目の中に大木があったのでは何にもならない!」と。
教師の権威?
先日もある高校の先生とお話をしていると、「昔は親に対しても子どもに対しても教師の権威はありましたが、最近は教師の不祥事(買春問題等々)が続き、権威どころか、正しいことを言っていてもまともに聞いてもらえない」というようなことを言っておられました。学校の教師も口では恰好いいことを言っていてもその実体はひどいものだということです。ユダヤの指導者と変わりません。
しかし、先生方に関して言うならば、私は立派な先生をたくさん知っています。よく頑張っておられます。
本来教師は学問を教えるだけの機械では無くて、学問を教える中で、教師自身の生き様を子ども達が見て、子ども達が意欲を燃やし、「私もあのような人間になりたい」というような気持ちをもたせる存在だったのです。つまり、それぞれの学科と共に人生哲学を教えていたのです。
今も見習って欲しい先生方がたくさんおられます。しかし、現実に教師の不祥事が相次いだため、過剰に教師批判がなされて教師も堂々と信念に従って教育しにくい状態になったと思います。
子どもは親に学ぶ
では私たち親はどうでしょうか?
私たち親は子どもに対して、子どもの目の中にあるゴミにばかり意識がいって、自分の目の中の大木に気がつかないということは無いでしょうか? 自らの行動を反省することも必要かも知れません。子どもに見習って欲しいと言える自分でしょうか?
時として、子どもの行動に対して「なぜこんな事をするんだろう」と、嘆くことがあるものです。もちろん子どもですから、物事の論理を理解していないことが多いわけです。
でも、子どもたちがそういう行動をとるには、それなりの理由があります。本能というものが無いわけではありませんが、脳に何らかの形で植え付けられないと、その行動をとることができないものです。つまり、子どもたちは学習したからその行動をとっているのです。
子どもにとって最大の見本は「親」です。現代は必ずしも「親」だけの責任にはできません。テレビなどの影響が大きいことも事実です。
例えば、親がテレビなどでやっている「戦隊もの」を知らなくても、子どもはテレビや絵本、友達などから「戦隊もの」を学んできます。そのため、親は叩いたことが無い場合でも、子どもが暴力的な行動に出ることがあるのです。
かつて、ある地域で幼児が殴る行動が増えたのを調べた方がありましたが、その時に「空手」を習っている子どもが多かったというのです。もちろん武道には礼節が欠かせませんから、そのことをきっちり指導していくとそういう行動も無くなっていきます。しかし、学習したから脳に蓄積され、殴るという行動をとるということではよく分かる話です。
また、人を蹴る子どもが増えたことでは、サッカーをしている子どもたちにその傾向が強いと言った人もいました。やはり、蹴ることを学習したからと言えるでしょう。
ですから、そういう行動をする背景には何かで学習しているものなのです。ですから、人を叩いてはいけない、蹴ってはいけないということも言葉だけでは無く、子どもたちの脳にしっかりと学習されるようなよい行動、恰好いい行動を見せていくべきだと思うのです。
こうなりますと、親だけの問題では無くなってきます。幼稚園や学校の先生、部活動の先生、チームのコーチなど色々な人から子どもたちがよい行動を真似てくれるように願うのです。
ですが、やはり「親」の影響は大きいです。子どもの行動を嘆く時には、まず自分の目の中の大木に注意した方が良いのかも知れません。
親が子どもに「ノー」を教える
大人の世界では「イエス」と「ノー」を正しく使わないと大変なことになります。もちろん子どもでもそれは同じですが、規模が違うでしょう。でも、幼い内からその使い方を学んでおくのは有益です。
とはいえ、赤ちゃん時代には、泣いても親から「ノー」と言われては、精神衛生上良くないことは明白です。
しかし、幼児になると自ら第一反抗期の様相を示して「イヤイヤ期」を迎えます。そういう時期に親の方で、子どもの良くない行動や願いに対して「ノー」と伝えていくのは必要なことです。
この段階で、なおも赤ちゃん時代のように、何でもかんでも受け入れてしまうと、境界線を知らない、わがままな子どもになってしまいます。幼児期は、なぜ親が「ノー」というのか、またそれに従うことが自分にとって良いことだということもわかるようになってきています。
また、幼児期後半になりますと、自分の言葉に責任を持たねばならないことも理解してくるものです。
真似させて教える
子どもは良いことも悪いことも真似ます。「まねっこ」時代があるものです。それは幼い時期の子どもというのが、言葉で教えられて理解して学んでいくというよりも、真似をして学んでいくことが多いからです。つまり、一日中、親は子どもの見本になっているわけです。
寝る時間やテレビを観る時間など大人と子どもで違いのあるものも当然ありますが、人が話をしている時は聞くものであり、割り込んではいけないとか、みんなに共通して大事な事があります。こういう点を抑えて教えていくのです。
親の向上心
こうした事を見ていくと、自分の目の中に大木が無いかと注意することもそうですが、親自身が向上心をもって生活することが大事なのでは無いでしょうか? その姿を子どもたちは見て学んでいるということです。
イエス様を見て・・
イエス様が弟子たちをいつも身近に置き、生活されたのは単にイエス様が聖書の知識を教えるためではなく、聖書の言葉(神の言葉)を生きるということを教えるためにご自身の生き方を見せてこられたのだと思います。弟子たちはイエス様を真似ていくのです。でも、真似事は真似事に過ぎません。その行動や言葉が真に自分のものとなっていくためにさらなる努力が必要だったと思います。
しかし、人間の努力は限界だらけです。弟子たちはイエス様以上にはなれません。当然です。イエス様は神様ですから。
そのイエス様が弟子たちの限界を知り、「助け主」として彼らを生涯見守ってくださったのです。
心を込めて教育したつもり、子育てしたつもりでも上手くいかないことも多々あります。
「イエス様が福音」というのは、私たち人間は限界があって、失敗の連続でもあるけれど、イエス様がいつも側にいて、私たちを助けてくださるからです。
不確かな不十分な私たちを子どもの親として見本とされたのは、私たちの背後でもっと大きなお方、神様が助けてくださるからできることなのです。
とすれば、子どもが一目置く「親」が一目置く、尊敬するお方がおられることを教えていくことが素晴らしい教育と言えるのではないでしょうか。