思い込みの子育て?

子育て通信

握りしめたロープ

 こんな話を見つけました。

 寂しい道で、一人の旅人を強盗たちがおそい、旅人の持ち物すべてを奪いました。それから強盗たちは、旅人を森の奥に連れて行き、森の暗闇の中で大木の枝にロープを結び、ロープの端をつかまえるように、旅人に命じました。
 そして、旅人を暗闇の中に揺り動かしながら、「お前は、断崖絶壁の縁の上に、ぶら下がっているんだ。おまえが手を離せば、それで最後だ!」と言って、旅人を木の下に置き去りにしたのです。
 旅人は恐ろしい死の恐怖にふるえながら、揺れるロープの端をしっかりと握っていましたが、旅人の力は少しずつ衰え、一瞬、一瞬、死の時は確実になりました。
 ついに旅人は、もうロープを握っていることが出来なくなり、固く縮まった指は、けいれんを起こしてついに落ちたのです…。
 ところが、崖下に落ちたのではなく、15センチ下の足元の固い地面の上だったのです。強盗たちが崖の縁の上だと言ったのは、逃亡の時間を稼ぐための策略だったのです。

 みなさんは、このお話、この旅人に、ご自分をご覧になりましたか?
 「お前が手を離せば…こうなってしまうぞ」
 「おまえはこうあらねばならないぞ」
 「もしお前がやめたら、終わりだぞ」
 あなたを身動きできないように恐れさせ、あなたを疲れさせる言葉がいつもあなたを苦しめてはいないでしょうか?
 それは親に育てられているときに言われ続けてきた言葉かもしれないし、他の誰かに言われてあなたをずっと圧迫している言葉かもしれません。
 そして、にぎりしめているロープがありますか?
 それは昔からの習慣ですか?
 あなたのプライドですか?
 あなたが意固地になって主張している意見ですか?
 それとも・・・。
 けど結局、あの旅人のように、疲れてしまって離さざるを得ないときが来るかもしれません。私たちには限界という地点があるのです。
 けど、もしそれを手放してしまったからこれで終わりだ…と言う必要はありません。
 もしかしたら、あの旅人のように、手を放したことによって、解放されるかもしれません。地に足を着けることが出来るかもしれないのです。
 もしドスンとすぐ下に落ちたらまた起き上がればいいのです。手放したら終わりなのではなく、新しいスタートになるかもしれません。

思い込みの子育て

 これを読んだときに思ったのは、思い込みの問題です。
 子育てにも思い込みがたくさんあるのではないでしょうか。そこで手を離しても何ら問題無いのに、手を離すことが恐くてできないというような。
 「これが子どものためになる」と思い込んでいるということはないでしょうか? 「これをさせないと子どもの将来はダメになる」なんていうのはどうでしょうか? 実は手放したら楽になるのに、手放せないことで苦しんでいることが案外あるのかも知れません。

思い込みの子育て

 私は決して子育ての専門家ではありませんが、せっかく学んできたことや、教師時代の経験を生かして、子ども達や若いお母さん、お父さんに少しでも役に立てればと相談に乗ったり、「子育ての会」を開いたりしてきました。その相談の中でもやはり結構思い込みがあることを感じました。
 その情報源は、お母さん方の場合、お母さん方の間に流れる会話です。そしてネット情報です。しかし、それは正しいと言えるかどうか心配なことも多いのです。
 まして子ども達の情報は友だち同士から仕入れたり、やはりネット情報であったりして、もっと危なっかしいのです。でも子ども達はそれしか知らないためにその間違った情報で悩み苦しんでいることが多いのです。思い込みの怖さを感じます。

私の思い込み

 私は現在、キリスト教会の牧師をしていますが、18歳まで私は「神はいない」と思い込んでいました。だから自分の人生は自分で切り開かねばならないと思い込んでいました。
 しかし、18歳であることがきっかけになって神の存在を認めざるを得なくなったのです。そこから私は聖書を読みあさりました。ちょうど大学に入ったばかりでもあったので、教育の本、子どもの発達の本、障害を持つ子ども達の本なども読みあさりました。そして、それまで考えてもみなかった世界が見えてきました。

 人間の体が勝手にできたと思い込んでいた私はこんなにも緻密に計画され造られている体に驚き、驚くと同時に神の存在を確信したのです。
 そうすると神様には私たちの生き方にも関心を持ってくださっていることがわかりましたし、全ての人間は生きている価値があることも知りました。自分で何もできない障害を持っている人がどれほど神様に愛されているのか、そして、互いに助け合うことがどんなに大事なことかを聖書とそうした教育書などで知ってきました。

子ども達の思い込み

 教師時代に生徒達と話をしてみると、親の愛を理解していないことなど、思春期の子ども達の問題をいくつも発見しました。「お母さんは君のことをそんな風には思ってないよ!」と話しても、「自分は愛されていないんだ」などと思い込んでいる生徒、できる子なのに「できない」と思い込んでいる生徒、友だちから嫌われてもいないのに「嫌われている」と思い込んでいる生徒、罪を犯して「もう自分はやり直せない」と思い込んでいる生徒等々です。
 こうした生徒達の思い込みを「そうじゃない」と教えるのはそう簡単ではありませんでした。何しろ長い時間かけてこの思い込みが形成されているからです。つまりそのように教育されたとも言えるのです。教育の恐さを見ることができます。
 しかし、教育のすばらしさを私は知っています。

思い込みからの解放

 子ども達に正しいことを教え続けるのです。愛されていないと思い込んでいた生徒には、親の愛を多方面から教えるのです。ただ、厳しい教え方というのは思春期の子ども達には反発を買います。優しく、真実を伝え続けるのです。そして、実際に親の愛を感じてもらうのです。
 できないと思い込んでいる生徒には、できることを体験してもらうのです。失敗しても責めたりしないで、失敗は若い内にはむしろしておくべきだと教え、そこからどのようにするのがよいのか考えるようにさせるのです。陸上部の生徒には楽しくできる練習を幾つも考え出して、楽しい部活にしたところ「できる」生徒が増えました。それを見て、また頑張る生徒が増えました。「楽しい」ということが学校に、勉強に大事だと思います。
 嫌われていると思い込んでいる生徒には実際にクラスの中で話し合いをする内に親しい友達へと変わっていきました。
 やり直せないと思い込んでいる生徒には、親に愛されていること、教師にも愛されていることを伝え続けました。

愛されていることを知る

 それと、私にできることは子ども達のために祈るということでした。祈っていると「愛」が湧いてくるのです。
 私自身がまず神(イエス様)に愛されていることを知ったことは、私の思い込みからの解放でした。それを知るためには確かにある経験があったわけですが、同時に聖書です。読んでもいなかったのに、神はいないと思い込んでいた私にこんなにも秩序正しい天地・万物の創造がなされ、人間が罪を持ってしまったいきさつ、罪の結果様々な問題が起こってしまったこと、しかし、神は私たちを愛してくれていることを知りました。目から鱗でした。
 そして、子ども達のために祈ることで、私の中に子ども達に対する愛が湧いてきた体験です。私は「祈りは愛」と思っています。

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Posted by shinnakano