祈り
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大胆に語れるように祈ろう!

礼拝メッセージ

2021/8/8 礼拝説教
【テーマ】  クリスチャンの生き方
【説教題】 「大胆に語れるように祈ろう!」
【聖書箇所】 エペソ6:18-20

6:18 あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。
6:19 また、私のためにも、私が口を開くときに語るべきことばが与えられて、福音の奥義を大胆に知らせることができるように、祈ってください。
6:20 私はこの福音のために、鎖につながれながらも使節の務めを果たしています。宣べ伝える際、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。

エペソ6:18-20

○ この前のところで、私たちに与えられている武具を身に着けて悪魔に立ち向かうことが語られましたが、それは何のためなのでしょうか? ただ、悪魔をやっつけるためだけでしょうか? 悪魔をやっつけると福音が前進する準備ができるのです。福音の前進のためにまず悪魔の働きを打ち破るのです。その戦いの武具は現実に見える形の武具ではありませんでした。どうもこのキリストの信仰の世界は見えるものが本当に無いですね。

御霊によって祈れ

見えないからこそ

    1.悪魔に対して武具を身に着けることを語ったパウロは続いて祈ることを勧めます。信仰の世界の戦力の源は祈りだからです。 御霊によって祈りなさい と大事なことが言われていますが、信仰の世界は見えないだけに、この祈りも実際には見えないものです。

    2.この信仰の世界は見えないだけに説明できないことが多いのです。「信じるってどういうことですか?」「聖霊に満たされるってどういうことですか?」「三位一体とは?」等々。説明できないにもかかわらず、クリスチャンは信じています。敢えて言うならば頭で信じるのでは無く、心・ハートで信じています。

    3.説明はできないけれども、イエスを信じるとわかるわけです。パウロはわかっていたのです。彼は 

私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。 

Ⅱコリント4:18

とも言っています。

悪状況の中で

    1.パウロの現実はというとローマの獄中です。何ができるでしょうか? 見える世界としてはパウロは伝道できないのです。彼の生きがいが失われたのです。しかし、彼はそんな中で どんなときにも御霊によって祈りなさい。 という見えない世界で行われている神の不思議な働きを体験しています。獄にいても伝道はできるという不思議な体験です。

    2.私たちだってこんな不思議な体験はいっぱいあるでしょ。病気をしたからもうダメだと思っていたのに、その病気のお陰で不思議に証ができるようになった、ある人たちとの出会いがあったというようなことです。

    3.こうした思いもかけないことがいくつもあるのが信仰の世界ですから面白いし、楽しいです。「証してください」と言われて「いえ、私はできません」と言っていたのに、いざ前に立ったら、不思議とみんなを励ますような証をしていたということがいっぱいあるじゃないですか。

忍耐の限りを尽くして祈れ

目を覚まして祈る

    1.パウロはそのために 目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい と言っています。 目を覚ましていて とありますが、祈っていて眠ってしまうことがあります。聖書を読んでいて眠ってしまうことがあります。礼拝中眠ってしまうことがあります。それはまだいいとして、ここでの 目を覚ましていて とは状況をしっかり把握して すべての聖徒のために 今どのような必要があるかを見極めるということです。

    2.それが御霊によって祈ることなんです。自力で見極めるのではなく、聖霊に導かれて祈るのです。主を見上げて祈るのです。パウロは獄中でしたが、獄ばかり見て祈ったら悲観的な祈りになったかも知れません。しかし、彼は閉ざされた獄では無く、開かれた天、そこにおられる主を見上げて祈ったのです。ここに 目を覚ましていて の祈りの極意があるのです。

忍耐の限りを尽くして祈る

  1.そして、祈りには忍耐が必要です。祈りに忍耐を感じない人はまずいないのではないでしょうか。祈っても祈っても、のれんに腕押し、糠に釘のような感覚。「神は聞いてくれているのだろうか?」と疑問に思う人だっているかと思います。そこで信仰が必要ですね。神は絶対にこの祈りを聞いてくださっているという信仰をいただき、何があっても祈り抜くというような忍耐強い祈りが必要です。

    2.かといって変に力む必要はないと思います。なぜなら聞かれていると信じて祈るのですから。とは言え、やはり祈りには忍耐が必要ですね。それがあの大先生パウロの学んだことなのです。私たちも誰かのために忍耐を持って祈りたいものです。必ず救われると信じて。あるいは必ず救われると信じ切れるまで祈るというのでしょうか。

互いに大胆に語れるように祈れ

 口を開くときに語る言葉が与えられるように

    1.私は説教の準備をします。パワーポイントも作ります。週報に挟む説教要旨も作ります。すると説教ができたと思い込みやすくなります。しかし、説教とは語る時こそ説教なのです。皆さんに説教準備のために祈っていただくことももちろん大事ですが、当日語る時のためにお祈りいただきたいものです。

    2.同じく、伝道もそうです。こちらは多分に準備が無いものです。突然未信者の方が来られる。語れるだろうかと不安になります。それでいいのです。だからこそ神に委ねる信仰が生まれます。未信者の方を牧師に任せてはいけません。そして、みんなが大胆に福音を語るように祈るのです。

    3.「福音とは何ですか?」と尋ねてこられたクリスチャンの方がいます。あなたがイエスを信じたことが福音です。福音とはグッドニュースです。天国に行けないはずの私を天国へと導いてくださったイエス様のわざが福音です。その体験を語れば良いのです。そして、イエスが救い主だということを語ればよいのです。

福音の奥義を大胆に知らせることができるように

  1.語るのは単なる知識ではないのです。福音であり、しかもそれは奥義であって、なかなか人には理解してもらえないようなものです。ですから語る者が不安をもって語っていたのでは信じてもらえるでしょうか? しっかりと信仰に満ちて大胆に語ることができる必要があるのです。

    2.そのためにパウロも願っているようにお互いに祈りをもって支え合うのです。祈りは互いに仕え合う「愛」です。「互いに仕え合う」は同時に「互いに祈り合う」ともなるのです。

● このコロナ禍の中、教会になかなか集まれない、以前礼拝出席していた未信者の方がほぼみんな来なくなった現実、それでも新たに来てくださる方があります。こういう中でクリスチャンの皆さん、伝道したいという思いがわき上がってきませんか。手紙から、メールから、LINEから、Zoomから、どんな方法でもあなたが主にあって考え出してみてはいかがでしょうか。

★ パウロが獄中でも福音の前進を見たように私たちもコロナ禍でも福音の前進を見ようではありませんか。悪魔は大胆に福音が語られることを当然嫌います。ということは大胆に福音を語っていきたいものです。自分もですが、他のクリスチャンも語れるように祈り合うことが必要です。

  1. あなたは御霊によって祈っていますか?
  2. 大変な状況に見舞われても福音が前進したことはありませんか?
  3. 「目を覚まして祈る」とはどういうことですか?
  4. 忍耐の限りを尽くして祈っていますか?
  5. 自分が、みんなが大胆に福音を語れるように祈っていますか?