閉ざされた心の目

エマオの途上で

礼拝メッセージ

2022.4.17 礼拝説教
テーマ:閉ざされた心の目
説教題:「エマオの途上で」
テキスト:ルカ24:13~32 


24:13 ところで、ちょうどこの日、弟子たちのうちの二人が、エルサレムから六十スタディオン余り離れた、エマオという村に向かっていた。
24:14 彼らは、これらの出来事すべてについて話し合っていた。
24:15 話し合ったり論じ合ったりしているところに、イエスご自身が近づいて来て、彼らとともに歩き始められた。
24:16 しかし、二人の目はさえぎられていて、イエスであることが分からなかった。
24:17 イエスは彼らに言われた。「歩きながら語り合っているその話は何のことですか。」すると、二人は暗い顔をして立ち止まった。
24:18 そして、その一人、クレオパという人がイエスに答えた。「エルサレムに滞在していながら、近ごろそこで起こったことを、あなただけがご存じないのですか。」
24:19 イエスが「どんなことですか」と言われると、二人は答えた。「ナザレ人イエス様のことです。この方は、神と民全体の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。
24:20 それなのに、私たちの祭司長たちや議員たちは、この方を死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまいました。
24:21 私たちは、この方こそイスラエルを解放する方だ、と望みをかけていました。実際、そればかりではありません。そのことがあってから三日目になりますが、
24:22 仲間の女たちの何人かが、私たちを驚かせました。彼女たちは朝早く墓に行きましたが、
24:23 イエス様のからだが見当たらず、戻って来ました。そして、自分たちは御使いたちの幻を見た、彼らはイエス様が生きておられると告げた、と言うのです。
24:24 それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、まさしく彼女たちの言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
24:25 そこでイエスは彼らに言われた。「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。
24:26 キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」
24:27 それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。
24:28 彼らは目的の村の近くに来たが、イエスはもっと先まで行きそうな様子であった。
24:29 彼らが、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いています」と言って強く勧めたので、イエスは彼らとともに泊まるため、中に入られた。
24:30 そして彼らと食卓に着くと、イエスはパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された。
24:31 すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
24:32 二人は話し合った。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」

ルカ24:13~32

閉ざされた心の目

二人の弟子がエルサレムからエマオへ向かう途中、エルサレムでのイエスの出来事について話していた。そこへ、当の本人であるイエスがその話は何のことかと尋ねる。それに対して、彼らはエルサレムから来た人がこの話を知らない事に驚き、得意げに話すのであった。「:19この方は、神と民全体の前で、行いにもことばにも力のある預言者」だった。そして、「:21イスラエルを(ローマ帝国から)解放する方」であると望みをかけていた。ところが、十字架にかけられて処刑されてしまった。しかし、三日目に墓に行った女たちは、御使いからイエスがよみがえったと知らされ、自分たちはそれを聞いて驚いたのだと伝える。彼らは、イエスに対して政治的・武力的・地上的なメシヤ(救世主)と期待していた。しかも、彼らの言葉はすべて過去形であり、期待していたイエスはもういないのだという失望感が表れている。私たちも、失望に満ちている時、イエスを見失うことがあるのではないだろうか。

心の鈍い、信じない人へ

彼らの言葉に対して、イエスは「:25心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。」と一喝する。弟子たちの人間的な狭い考えにあきれてしまったのである。確かに彼らは、イエスを「行いにもことばにも力のある預言者」であると理解しつつ、イスラエル国家を再興してくださる方と思っていた。そして、復活することを信じていなかった。そのような愚かな誤解は、聖書についての誤った解釈に基づいている。そこでイエスは、聖書全体について説き明かされ、苦難と栄光に関する言葉を語ってくださった。それは、「苦しみを経て栄光に入れられる」という神の原理でもある。弟子たちは、期待していたメシヤは死んだ、という失望によって心が打ちひしがれていた。だが、思い出さなくてはならない。苦しみの後に栄光が現されることを。そして、現代に生きる私たちも同様である。今、家庭や職場、学び舎において何か苦しい出来事、心が沈むような問題があるかもしれない。でも、神はこのままでは終わらせない。イエスが弟子たちに聖書を語られたように、私たちにとっても間違った信仰を正すのは、聖書の御言葉である。

心の目が開かれる

この弟子の一人はクレオパ(クレオパトロスの短縮形)(:18)と書かれているが、もう一人の弟子については諸説あり、エマオの家にイエスを招くところから、彼の妻ではないかということだ。彼らがやがて食卓に着き、イエスが「:30パンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された」時、ついに彼らの目は開かれる。ここで私たちは、最後の晩餐でイエスが聖餐式を教えられた場面を思い出す。しかし、彼らはその場に居合わせた12弟子ではなかった。彼らは、「主の祈り」にある「日毎の糧」を与えてくださる主を見たのだった。その瞬間、イエスは見えなくなる。彼らはそこで思い返した。「:32道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」実は、イエスへの熱い思いが彼らを突き動かした。あるいは、それは聖霊の働きともとれるかもしれない。もしも、イエスを強く引き留めなければ、永遠に「見知らぬ人」で終わっていたのだ。
私たちもどんな失望の時にあろうとも、「主よ、共にいてください。」という篤い信仰が必要である。

結び)弟子たちの心の目を閉ざしていたものは、失望以外の何ものでもない。私たちは、どんな失望の時にあろうとも主を見失ってはならない。御言葉を信じ、主が共にいてくださるという信仰をもって前進して行こう。