見ずに信じる者は幸い
信仰の本質

見ずに信じる者は幸い

礼拝メッセージ

説教者:藤井敬朗牧師
 2023/5/7 礼拝説教
【テーマ】  信仰の本質
【説教題】 「見ずに信じる者は幸い」
【聖書箇所】 ヨハネ20:24-31

20:24 十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
20:25 そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。
20:26 八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。
20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
20:28 トマスはイエスに答えた。「私の主、私の神よ。」
20:29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」
20:30 イエスは弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが、それらはこの書には書かれていない。
20:31 これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。

ヨハネ20:24-31

○ 皆さんは見えなくても信じているものがありますか? 
神も復活のイエスも見なければ信じられないのでしょうか?
もうおおよそ1ヶ月前になりますが、4月9日がイースターでした。その時に語ったのはヨハネ20:19-23でした。今日はその続きのところを見ます。その続きと言っても今日の話の中心はそこから8日後のことです。

見なければ信じない人

信じなかった日

    1.今日のテキストの中心人物はトマスです。彼は他の弟子達が復活のイエスと出会ったとき、そこにいなかったそうです。他の弟子達が 「私たちは主を見た」 と言いますが、トマスは 「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」 と言います。見て信じた人と見ていないから信じない人という対比です。

    2.イエスは復活されたのかされなかったのか、どちらかが真実です。信じるか、信じないか、この二種類の人がいるのは私達も度々感じる事です。でも真実は一つです。

信じた弟子達もまだ部屋の中

    1.この話があって8日後です。この8日間は何をしていたのでしょうか? 復活のイエスに会ったものの特別な動きが感じられませんね。人はよく「見たら信じる」と言いますが、「信じる」というのはそれにふさわしい行動が伴うものなのです。しかし、イエスを見た弟子達に動きがありません。

    2. 戸には鍵がかけられていた と、弟子達はまだ外に出ている気配が無いです。今度はトマスもいました。そこにまたしても、 イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた のです。これだけでも十分驚きです。

見たから信じたのか?

8日後の出来事

    1.8日前に、トマスは他の弟子達に 「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」 と言っていたのですが、イエスはトマスに 「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。 と、トマスの言ったことを知っておられました。

    2.果たしてトマスはイエスの傷跡に指、手を入れて確かめたのでしょうか? わかりませんが、そんなことするまでもなく、トマスの目の前にはっきりとイエスはおられました。トマスも遂に復活のイエスを見ました。トマスは見て信じたのです。

一気に変わったトマス

    1.トマスが信じたことは 「私の主、私の神よ。」 というトマスの言葉に表されています。これは信仰告白なんです。彼は見たから信じたわけですが、一体イエスの何を信じたのでしょうか? まず、本当にイエスは復活したということでしょう。しかし、それだけなら、この告白にはなりません。

    2.トマスの信仰告白は「イエスは私の罪からの救い主です。イエスは私の神で、私はあなたに自分を明け渡して従います」という告白なんです。イエスが復活したということを客観的に信じるだけなら、信仰とは言いません。信仰は力強い次の動きを生み出すものです。

見ずに信じる者は幸い

信仰とは何だろう?

    1.とすれば、やはり「信仰って何だろう?」と気になりますね。そこで、イエスは信仰の本筋を語られます。 「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」 ありもしないもの、神も天国もありもしないのに信じるのだとすればそれは本当にむなしいことです。見ないで信じるというのはそういう盲信である可能性もあります。実際、そういう宗教を人間はたくさん作ってしまいました。

    2.しかし、イエスが本当に神であること、罪からの救い主であることは、地上生活の間に示してこられたのです。それを弟子達は見聞きし、体験したのです。それは確かにイエスを見たからこそわかることでした。

私達も幸いな人ではないか

    1. 20:30 イエスは弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが、それらはこの書には書かれていない。20:31 これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。 とヨハネがこう書来ましたが、このヨハネの福音書を読む人はイエスを見たことのない人達です。私達もその人々です。

    2.ヨハネは自分の見たこと、聞いたことを、人の魂、命、人生、永遠に関する大事なことなので、何としても伝えなくてはならないと思って命がけで書いたのです。

聖書と聖霊の働きによって

    1.今、私達はイエスを見ていませんが、信じる事ができるのはなぜでしょう? それはまず「聖書」が真実だからです。聖書の真実性を示すために多くの学者が研究を重ねてきました。そして、聖書が神の霊感を受けて書かれた真実な書であると認めてきました。

    2.しかし、それだけでは信仰に入れないでしょう。イエスに向き合い、心をイエスに開いた人に聖霊なる神がお住まいになることで信じる事ができるのです。聖書と聖霊の働きです。聖書を読むことの大事さ、聖霊を求めることの大事さがわかりますね。

● ペテロの言葉を見てみましょう。 Ⅰペテ 1:8 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。 と、見ていなくても信じる人達の幸いを語っています。

★ 普通、なかなか見ること無しには信じられないものです。「百聞は一見にしかず」と言われるくらいです。しかし、イエスは 見ないで信じる人たちは幸いです と言われました。そこに信仰の本質があるからです。