本物の裁き主
ヨハネの福音書8:2-11, 8:16

本物の裁き主

礼拝メッセージ

説教者:八木原海伝道師
説教題:『本物の裁き主』
説教箇所:ヨハネの福音書8:2-11, 8:16

8:2 そして朝早く、イエスは再び宮に入られた。人々はみな、みもとに寄って来た。イエスは腰を下ろして、彼らに教え始められた。
8:3 すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、
8:4 イエスに言った。「先生、この女は姦淫の現場で捕らえられました。
8:5 モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています。あなたは何と言われますか。」
8:6 彼らはイエスを告発する理由を得ようと、イエスを試みてこう言ったのであった。だが、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。
8:7 しかし、彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」
8:8 そしてイエスは、再び身をかがめて、地面に何かを書き続けられた。
8:9 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始まり、一人、また一人と去って行き、真ん中にいた女とともに、イエスだけが残された。
8:10 イエスは身を起こして、彼女に言われた。「女の人よ、彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さなかったのですか。」
8:11 彼女は言った。「はい、主よ。だれも。」イエスは言われた。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」
8:16 たとえ、わたしがさばくとしても、わたしのさばきは真実です。わたしは一人ではなく、わたしとわたしを遣わした父がさばくからです。

ヨハネ8:2-11, 8:16

 プログラマ時代、コンピューターの心臓部に手を加える時は慎重にするように教えられました。誤って、直そうとする箇所とは別の場所をいじるとパソコンが壊れてしまう可能性があったからです。精密機械、また外科手術も慎重さが求められます。イエス様は、私達の罪に対して、丁寧にそして使命を持って取り扱われます。今日の箇所では、使命などなく軽々しく人の罪を裁こうとする人達が出てきますが、私達は本当の裁き主であるイエス様がおられ、その裁き主は、私達が神様の前でも胸をはって生きていけるよう赦してくださることを見ていきましょう。

にせの裁きを遠ざける

 宮で神様のことを教えていたイエス様のところに、イエス様を目の敵にしている律法学者とパリサイ人たちが乗り込んできました。一緒に連れてこられた女性は、一人の男性と結婚していて、別の男性と関係を持ったということで、姦淫の罪を犯したというのです。モーセの律法では殺すように書いてあるが、どうするのかと彼らはイエス様に尋ねます。女性は非常に怖かったでしょう。イエス様のお答えは、なんと、無視でした。ろくに取り合わないどころか全く別の角度で話されました。
 8:7 しかし、彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」
 本物の裁き主であるイエス様は、律法学者とパリサイ人たちが、女性を裁くに値しないとわかっていました。罪を抱えた者たちが、自分の罪深さを忘れて、その女性の苦しみも理解できずに裁くことを、イエス様はお認めになりませんでした。

赦す使命がある

 ではイエス様は、本物の裁き主として女性の犯した罪に対しての裁きを執行したのかというと、そうではありませんでした。

イエスは身を起こして、彼女に言われた。「女の人よ、彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さなかったのですか。」
彼女は言った。「はい、主よ。だれも。」イエスは言われた。「わたしもあなたにさばきを下さない。

ヨハネの福音書8:10-11

 イエス様は裁きではなくて、反対に赦されたのでした。それはイエス様が私達の罪の重荷を背負おうとされているからです。私達は他の人だけではなく自分にもレッテルを貼ることがあります。「あの人はもう落ちぶれた」「私はもうだめだ」という具合です。これに罪が加わると、もうこの世に生を受けた人として面目ない気持ちやみっともない気持ちにさいなまれるのではないでしょうか。イエス様はそのような人に出会うためにこの地上に来られました。罪人が石打ちでも切腹でもなく、罪の重荷から解放されるために、神のもとから遣わされたのがイエス様です。

たとえ、わたしがさばくとしても、わたしのさばきは真実です。わたしは一人ではなく、わたしとわたしを遣わした父がさばくからです。

ヨハネの福音書8:16

ある小学生の女の子は、かつて妹にいじわるした時から、年月は経っているのに「自分は良くない人間だ」と思い続けてきたそうです。しかし、賛美の歌詞で「全ての罪は赦されている」という歌詞を見た時に、イエス様に赦されている感動と喜びが湧いてきたと言いました。私達もイエス様によって赦しを得ていきたいです。

十字架のイエス様によって赦される

 イエス様が私達を赦すことができる根拠は、その十字架にあります。すべての人の罪のための罰を、身代わりとなってイエス様は受けてくださいました。みなさんこの十字架のイエス様の赦しを受けておられるでしょうか?イエス様の赦しには将来があることを最後に見ます。
 北海道家庭学校は、児童相談所の判断を受けた、非行の問題や家庭環境の難しさを抱える子どもたちが寝食を共にして集団生活を送る学校です。創設したのはクリスチャンの留岡幸助です。すべての人に救いのチャンスがあることに感動して、広大な自然の中で子どもたちを育てていくことを決めました。そこで木を切り、牛を育て、農産物を販売します。自然に向き合う中で命や家族、何かを作る大変さを学ぶ中で心が育ち、これから先を生きて行く基礎ができていくそうです。私が紋別にいた時に地域情報誌に家庭学校のことが掲載されていて興味を持ったのですが、子どもたちに将来を与える素晴らしい役割があるのだと思いました。イエス様も女性に将来を与えました。

行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。

ヨハネの福音書8:11

 罪を犯してはなりません、とは、もちろん神様の喜ばないことを避けるということも含まれるでしょう、しかしもっと大事な意味としては、神様がおられることを生活のところどころで意識していきなさいという意味です。私達は、神様を仰ぎ見つつ、賛美し喜んで生活しておられるでしょうか?本物の裁き主であるイエス様は、赦すと決めてくださり、十字架ですべての罪のための神からの罰を背負ってくださいました。ですから、私達は、復活して今も生きておられるイエス様と一緒にこの先も生きて行くことができるのです。そして、地上での命を終えた後も、素晴らしい天の御国へと導いて下さるのです。このイエス様を受け入れて、また喜びを持って歩んでいきましょう。