罪の奴隷からの解放 ヨハネ8:31-36

神にある真の自由

礼拝メッセージ

説教者:佳子師
2023.10.15礼拝説教
テーマ: 罪の奴隷からの解放
説教題: 「神にある真の自由」
テキスト: ヨハネ8:31−36

8:31 イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。
8:32 あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
8:33 彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、今までだれの奴隷になったこともありません。どうして、『あなたがたは自由になる』と言われるのですか。」
8:34 イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。
8:35 奴隷はいつまでも家にいるわけではありませんが、息子はいつまでもいます。
8:36 ですから、子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由になるのです。

ヨハネ8:31−36

罪の奴隷

ヨハネ8章は、仮庵の祭りの宮での出来事である(ヨハネ8:2)。そこには多くのユダヤ人たちが集まっていた。8:1~11までは姦淫の女の話、:12~30は、世の光として来られたイエスについて、そして、イエスご自身はいつも父なる神のみ旨に従い、また父なる神から聞いた言葉をそのまま人々に伝えてきたことが書かれている。このイエスの話を聞いて、多くの者がイエスを信じた。にもかかわらず、:31からは、信じた人たちに対してイエスは、「罪の奴隷」であると断言する。
それは、ユダヤ人たちの信仰が「頭だけ」の一時的な信仰に過ぎないことを、イエスは見抜いていたからだ。彼らの信仰は表面的で、イエスを認めながらも名ばかりの弟子になっていた。イエスを信じる者は弟子とされるが、本当の弟子であればイエスのことばにとどまり、いつもそれを喜びとして生きるものだ。そのことばは信じる者の生活の一部となって、常に正しい道へと導いてくださる。イエスはヨハネ福音書の冒頭にあるように「ことば」そのものである(1:1)。イエスのことばにとどまるとは、いつも生きた御声を聞くことができるように、イエスにとどまり離れてはならないということである。そうするならば、イエスも彼のうちにとどまってくださるのである(ヨハネ15:4,5)。
なぜ彼らはそれができないのか?それは彼らがイエスにではなく、何か他のものに心を奪われているからだ。
それこそが彼らの「偶像」であり真理を見えなくさせているものである。この時のユダヤ人にとっての偶像は、先祖であり、民族的誇りであり、伝統であった。自分たちはアブラハムの子(子孫)だから、神によって義と認められている。だれの奴隷になったこともないと彼らは言うが、歴史を振り返れば、エジプトで奴隷にされた時代があった。また、バビロン捕囚やローマ帝国の支配など、政治的な奴隷状態と言うことが出来るだろう。
どんなに自分は自由であると思っている人でも、その心を縛っているものがある。それを解くのは表面的な信仰や形式的な宗教では不可能だ。そのためイエスは、彼らを「罪の奴隷」だと言ったのである。この「罪」とは、神を第一とすることなく、自分を誇り、自分の欲を満たすことだけを優先して自己中心に生きることである。このような人は、神ではなく自分を第一にした欲求に支配されている。
これらのユダヤ人だけではなく、私たちも「罪の奴隷」になってはいないか?

真理を知る

では、「罪の奴隷」から解放されるにはどうすればよいのか?
そのためにはまず、私たち人間は罪の奴隷であり、自己を解放する力が自分にはないことを認めることだ。奴隷は自分自身を解放することはできない。奴隷はその家の子どもではない。しかもいつか別の家に売り渡されてしまうかもしれない。奴隷は奴隷であって、自分から身分を変える力がないのである。たとえ同じ罪の奴隷である人間が、彼を救い出そうとしても徒労に終わる。罪からの解放のために、あらゆる修行や人間の作り出した宗教にのめり込んだとしても無駄なのだ。
そこで必要なのが、全く罪のないお方イエスの力である。
人はこのイエスを知る必要がある。なぜならイエスは真理だからだ。(ヨハネ 14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。)イエスがなぜ人間の姿をとり、この地上に来られたのか。それは、罪の奴隷となっている私たち人間を罪から解放するためであった。イエスは十字架にかかることにより、私たちの罪を負い、身代わりとなって死んでくださった。こうして、私たちの罪は赦されたのだ。

神にある真の自由

私たち人間が言う自由とは、実は神を抜きにした自由なのである。さらに言うならば、神から離れて自由になることを目標としている。ルカ15章の放蕩息子は父親から離れて自分の思い通りに生きることが自由だと錯覚している。親から独立した人間が自由人と思い込んでいるが、果たしてそうだろうか。この放蕩息子は、やがて自分の過ちに気づき、父親の元に帰っていくではないか。
「神にある真の自由」とは、「罪から解放される」という、賜物としての自由である。私たちが真理であるイエスを信じ、いつもイエスに信頼してつながっているなら、罪から解放され、自由を与えられる。それは、神のことばを信じて、神と共に歩む自由である。その自由は、人を赦し赦され、また愛し愛されるものでもある。これは、神による罪の赦しを得なければ出来ることではない。私たち人間には元々持ち合わせていないものなのだ。
伝道するときによく言われることなのだが、神を信じると「○○してはいけない」と禁止事項が多くなって自由がなくなると誤解している方がおられる。でも、そうではなくて、信じた時に神様から真の自由を与えていただくのだ。それはまるで、小さな子どもが親に見守られ、安心して自由に動き回るかのようである。

終わりに)私たちはいまだに罪の奴隷となっていないだろうか。イエスという真理をさらに知って、神のことばに常にとどまり、真の自由をいただこう。