主の臨在の中で過ごす

主の家に住み続けよう

礼拝メッセージ

説教者:藤井敬朗牧師

2024/1/7 新年礼拝説教
【テーマ】  主の臨在の中で過ごす
【説教題】 「主の家に住み続けよう」
【聖書箇所】 詩篇23篇 (23:4-6)

<ダビデの賛歌。>
23:1 【主】は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
23:2 主は私を緑の牧場に伏させいこいのみぎわに伴われます。
23:3 主は私のたましいを生き返らせ御名のゆえに私を義の道に導かれます。
23:4 たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。
23:5 私の敵をよそにあなたは私の前に食卓を整え頭に香油を注いでくださいます。私の杯はあふれています。
23:6 まことに私のいのちの日の限りいつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。私はいつまでも【主】の家に住まいます。

詩篇23篇 (23:4-6)
主の家に住み続けよう

○ 2024年最初の日曜日(主の日)です。今年もよろしくお願いいたします。今年の教会標語は昨年と同様で「すべての人に福音を届ける」です。御言葉は マタイ28:19-20ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。 の宣教命令です。今年も福音宣教に励みたいと思います。
  私達が福音宣教に励むためには、私達こそ福音を喜んでいる必要があるのではないでしょうか。そこで、喜びの元を見てみたいと思います。
  昨年12月31日に詩篇23篇を読みました。その時は特に1-3節を見たのですが、今日はその詩篇23編の後半4-6節を見ることにします。

Ⅰ.死の陰の谷を歩むときでさえ

災いを恐れないダビデ

    1. 23:4 たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。 暗唱していると、ここもサラッと過ぎてしまいますが、谷という上から攻められると逃げるところも無い、死を見るしかないところにいても災いを恐れないというダビデ。彼はどれほど死の陰の谷を歩んだことでしょう。なのに、 私はわざわいを恐れません と言います。

    2.彼が災いを恐れなかった理由は あなたがともにおられますから です。「神が共におられる」と言って平安でいられるのは神が共におられることを実感しているからです。私達はどうでしょうか? この霊的感覚はダビデが子どもの時から持ち得てきたものでしょう。

神が共におられることでの平安

    1.皆さんの中には、死の陰の谷を歩んだ方もおられると思います。そういう状況で「平安をもちなさい」と言って平安を持つことはできるでしょうか? 「イエス様を信じましょうよ」と言ったところで平安を持つこともできないでしょう。言葉の限界を感じます。

    2.実際に神の臨在を感じて歩む必要があります。新しい年になったから何もかもリセットされて病気も無くなり、痛みも消えてサッパリしたというわけにはいきません。昨年から引きずっているあるいは何年も前から続いている病気や痛みや苦しみ、悩みがあるかと思います。

    3.リセットしたくてもできないことがあります。しかし、同時に神が今年も共におられるということも継続しています。これがリセットされたら大変です。しかし、私達の信じる神(唯一の神)は変わることがありませんからご安心ください。

主と共に食するとき

落ち着いたランチ

    1.ゆったり、落ち着いた食卓はどうでしょう? コロナ前の日曜日、私は皆さんと一緒にランチを食し、楽しく会話をしながらゆったりと(午後の活動のためにゆったりでないときもありましたが)食事をしていました。しかし、コロナでほとんどの方が教会に来れなくなったときから昼食はコンビニで買ってきて、教会にいる方々も離ればなれで食事をしました。同時に私は事務仕事が増えましたので、昼食時にパソコンの前で食事をしながら作業するようになりました。

    2.今もこれが定着してしまったのですが、久し振りにランチが復活して、2階ホールで皆さんと食事をした時、嬉しいものの「まだ話しながら食べるのはだめかな?」と気を遣いつつ食べました。でも、以前のランチのゆったりとした雰囲気を思い起こすことになりました。 私の敵をよそに というダビデのように「コロナをよそに」 あなたは私の前に食卓を整え のように食事が整って、嬉しくなりました。

杯あふれる食卓

    1.ダビデは大変な中にあっても 3:5 私の敵をよそにあなたは私の前に食卓を整え頭に香油を注いでくださいます。私の杯はあふれています。 と言いきっています。それは主が共におられるからです。この言葉は、主が共におられれば敵地にいても豊かな落ち着いた食卓を囲んでいるようなものだということです。

    2.聖餐式はイエスの十字架を思い起こす大事な礼典ですが、ただパンを食べ、ぶどうジュースを飲むだけならおやつを食べているのと変わりありません。聖餐式という礼典の中に主が共におられるから意義があるのです。現実は厳しくとも、主と共に食するとき、私達もダビデのように油注ぎを受け、杯は生ける水の川が流れ出るかの如く、溢れるのです。

いつまでも主の家に住もう

全ての人が救われて欲しい

    1.このすばらしい主を全ての人に知っていただきたいのです。そこで、今年の教会の標語は昨年から継続して「全ての人に福音を届ける」としました。ただ、聖句は「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイの福音書28章19-20節【新改訳2017】)にしました。

    2.全ての人に いつまでも【主】の家に住 んで欲しいのです。そのためには御言葉を聞き、主にしたがってほしいわけです。主に従うとき、時として 死の陰の谷 を体験するかも知れません。それでも 私はわざわいを恐れません と言えるほどに成長してほしいので、主の弟子となっていただきたいわけです。

神の祝福が追いかけてくる

    1. まことに私のいのちの日の限りいつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。私はいつまでも【主】の家に住まいます。 神のいつくしみと恵みが私達を追いかけてくるというのはすごい表現だと思います。私達が神を追い求め、「祝してください」と言うのが筋かと思いますが、主が共におられる人というのは神の方から、これでもかこれでもかと祝福してくださるというのです。

    2.しかし、それが世的な祝福では無いことに気をつけましょう。ダビデはこの祝福を死の陰の谷を歩んでいて感じとっているということです。だから 私はいつまでも【主】の家に住まいます。 なのです。この世では無いのです。

★ 2024年。今年も主の食卓に安らごうではありませんか。そして、その喜びをあらゆる人々に伝えましょう。子ども達さえ居場所を失っている現代、教会は主のいつくしみと恵みがみんなに追い迫ってくるところとして、子ども達、そして全ての方にも居場所となるよう祈り、備えましょう。