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コロサイ3:12-14

主がしてくださったように

礼拝メッセージ

説教者:海師
2024.2.4礼拝説教
説教題『主がしてくださったように』
【説教箇所】コロサイ3:12 – 14

〈新改訳2017〉
3:12 ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。
3:13 互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。
3:14 そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です。

コロサイ3:12 – 14
主がしてくださったように

立ち止まる歩み

 「ありがとう」と言うタイミングは逃しやすいかもしれません。友人から、普段の生活で、感謝の気持ちが大事だとわかっているのだけど、気づくとすぐ不満ばかりだと言われたことがあります。せわしない日常生活だと、大事な人がいても、また、自分のいる環境が当たり前でないとわかっていても、立ち止まってそのことに目をとめる機会が少ないかもしれません。そう考えると、クリスチャンは、立ち止まってばかりかもしれません。聖書から気づかされ、私達の神であるイエス様に対して感謝して日々歩んでいくからです。今日の箇所も、私たちの存在や、また他の人と関わるヒントを教えてくれています。

主がしてくださった > 赦し合う

 コロサイ人への手紙は、パウロがコロサイの教会の信徒たちに向けて書いた書簡ですが、今日のところで、主がしてくださったように、赦し合うようにという勧めをしています。コロサイの人がすごく喧嘩が絶えなかったのか、それとも恨みつらみがすごかったのか、想像ではわかりかねますが、一定の時間を共に過ごす人同士で、糸がからまったようなまま進むのではなくて、それをほどくような手続きを踏ませようとしたのでしょう。ただし、コロサイ書全体を見た時に、いろんなアドバイスをしていることに気付き、そして今日のところのパウロの言葉遣いを見ると、どうも赦し合うということよりも、「主がしてくださったように」という言葉に重きを置いているように感じてならないのです。正直、赦し合えるか赦し合えないかはさておいて、主がしてくださったこと、主があなたに何をして、主があなたをどう思っているのか、立ち止まって考えようと言っているように思えるのです。

①イエスは赦してくださった

 13節を読みましょう。
3:13 互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。
「主があなたがたを赦してくださったように」とあります。私達はもう一度イエス様が赦してくださる方であることを覚えたいと思います。神であり、赦すお方というのは、相容れない性質です。イエス様は、一方で、人間を上回る、人に恐れられ、自然や万物の法則をつかさどる神なのに、他方で、何の知識もない者も、大きな問題を抱えている者も、招き入れ、神と私達人間というかけ離れた存在を十字架によって架け橋をかけてくださったのです。

②愛をもって

 私達は赦しをいただくことができるのですが、何も恩着せがましいことをイエス様はなされたのではないです。イエス様は、どういう気持ちで赦しを与えるのかというと、純粋に、人を愛しているのです。
 12節前半と、14節を読みましょう。
3:12前半 ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、
3:14 そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です。
 「愛を着けなさい」「愛は結びの帯」とありますが、着物を最後に帯でしめるような愛があるという意味でしょう。愛することには何の複雑さもありません。かわいい赤ちゃんを見て子どもたちが自然と顔を向けたり、大人が手に触ろうとしたり、守ってあげたり、気持ちをまっすぐに表してあげることがあります。イエス様は、十字架にかかる前に身ぐるみはがされて、鞭うたれ、つばをはかれ、死刑にされたと福音書に書いてあります。神を侮り、また騒乱を起こした知能犯という風に言われるのですが、実際はそうではありませんでした。地上で過ごされていた時は、たくさんの人のところに寄って行かれ、神の国について話しました。十字架にかけられる時も、反論もしないで、全ての人を包み込むような思いで、「父よ彼らを御赦しください」と言って死んだ神でした。偉そうな神のイメージが一般的にあるのかもしれませんが、イエス様は、なんとまっすぐに、人を愛しておられたことでしょうか。パウロは、帯をしめるように愛を着けると言いました。私達は、イエス様が優しく、包み込むようにすべての人を愛してくださっていることをしっかり受け止めていこうではありませんか。

神との距離の近さ

 食事の前に祈るお宅があります。形はそれぞれで、食事を感謝したり、他に気にかけていることを短くお祈りしたりすると思います。クリスチャンでなくても一緒にお祈りすることもあります。慣れるとさらっと祈ってしまうことがありますが、よく考えると、小さな幸せです。作法も何も心得ないで、「イエス様の名前で」というだけでお祈りできるのは、すべての人が赦されている証拠です。ルーティンのように祈ってしまう時もあるかもしれませんが、それ自体、すべての人が神様から愛されている証拠です。神様との距離が近いことは当たり前ではないのだと思わされます。

★まとめ
 今日は、イエス様が赦してくださったことを見ました。神様の前にためらうことなく出られることを覚えて感謝します。また、イエス様はすべての人を包み込むように愛してくださっているということを見ました。今週も、愛をもって、私達の近くにいてくださるイエス様に祈りつつ歩んでいきましょう。