生活、聖活!
レビ記 11:43-47

生活、聖活!

礼拝メッセージ

説教者:海師
2024年3月10日
「生活、聖活! 」
レビ記11:43 – 47

11:43
あなたがたは、いかなる群がるものによっても、自分自身を忌むべきものとしてはならない。また、それによって身を汚し、それによって汚れてはならない。
11:44
わたしはあなたがたの神、【主】であるからだ。あなたがたは自分の身を聖別して、聖なる者とならなければならない。わたしが聖だからである。あなたがたは、地の上を這ういかなる群がるものによっても、自分自身を汚してはならない。
11:45
わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した【主】であるからだ。あなたがたは聖なる者とならなければならない。わたしが聖だからである。」
11:46 以上が、動物と鳥、また水の中にうごめくすべての生き物と、地に群がるすべての生き物についてのおしえであり、
11:47 それによって、汚れたものときよいもの、食べてよい生き物と食べてはならない生き物とが分けられるのである。

レビ記11:43 – 47
生活、聖活!

生活は無意識

中学生の英語の授業は不思議な科目だったなと思います。教科書に書いてある基本的な例文を質問し合う時間がありますね。たとえばドゥ、ユー、リスン、トゥー、ミュージック?あなたは音楽をききますかという簡単な質問ですが、面と向かって聞かれたこともないのでなぜか動揺してしまいます。ほかにも、朝何時に起きますか?チョコレートは好きですか?「いや、なんで答える必要があるの」と思いながら答えます。そして質問をし合うだけでなくてみんなで読む時間もあります。これが面白くて、アイ、ゲット、アップ、アット、セブン、オクロック。私は七時に起きます、私は七時に起きますと、どうでも良い情報を教室のみんなが連呼します。英文の練習でもしない限り、特に私達は意識もせずに生活しています。

聖である教え

旧約聖書のモーセ五書には教えが書かれています。注目したいのは、今日読んだ、食べて良い物、食べてはいけない物のリストなど、生活に密接な事柄のまとめとして、聖であるようにという教えがあることです。無意識に過ごす毎日でも、聖であるように意識する生き方があるようです。聖であるというのを、神を表すと言い換えても良いかもしれません。私達の普段何気なくしている生活の一コマ一コマが、神を表すような時になるとは、なかなか考えたこともない発想かもしれません。しかし、意外と日本の宣教のためには良いかもしれません。キリスト教の国では、どこにいてもクリスチャンばかりで、生活であまり違いは現れません。反対にキリスト教が弾圧される国では、むしろ生活で信仰が現れないように気を付けて生きなければいけません。私達は、どんな風に神様を生活で現わしていけるのでしょうか?

①神を見る

神様を見上げていくことが大事です。44節前半を読みましょう。

11:44前半 わたしはあなたがたの神、【主】であるからだ。あなたがたは自分の身を聖別して、聖なる者とならなければならない。わたしが聖だからである。

「わたしが聖だから」とあります。私達の生活が神様を表していくなら、聖である神様を見る必要があります。礼拝の時に神様を見上げるだけではなくて、日常生活の中で神様を見上げていくことも大切です。私達の生活には課題も付き物です。それぞれに通っているところがあると思います。こういう方法で解決せねばならないと見立てがあるかもしれません。でも本当にそれは神様抜きで解決することなのでしょうか?神様の側で持っておられる答えにも期待して歩ませていただこうではありませんか。

②滅ぼさない神

46節、47節を読みましょう。

11:46 以上が、動物と鳥、また水の中にうごめくすべての生き物と、地に群がるすべての生き物についてのおしえであり、
11:47 それによって、汚れたものときよいもの、食べてよい生き物と食べてはならない生き物とが分けられるのである。

「水の中にうごめく」「地に群がるすべての生き物」とあります。動物の中には、群れになって大きく見せて敵から身を守るものがあると言われますが、実際の自然界では群れている生き物は目立ちます。より大きく、全体を見渡せる生き物にとっては、食べてくださいと言っているようなものです。動物にとって、弱き命を食べないようにするということは不可能です。しかし神様は、弱き命を食い尽くすことをなさいません。エジプトで、弱い奴隷の立場であったイスラエルの民は、より強い他の民族に滅ぼされて当然だったはずです。しかし神様は、そのイスラエルの弱さを知った上でも、それを強い者が当たり前のように食べ尽くすのではなくて、通り過ぎてくださり、守ったのです。

正直神にならうような者ではないけれど

神が私を作った時、どういう思いで作ったのだろうか考えさせられます。この手は自分だけのためじゃなくて、他の人のためにも作ったのではないか。この足を与えた時、自分の場所から出ていって、他の場所で何かをすることも望んでおられたのではないかと思わされます。私は正直、神にならって他の人のために生きるという柄ではないけれど、イエス様が一生懸命神につかえられ、十字架にまで従われたことを知っています。また喜んで奉仕する人を教会で見てきました。そして、私の存在も、イエス様の一方的な恵みで、血によって洗われ、格別なものにされたことを覚える時に、今生きておられるイエス様にお応えする生き方をしていきたいなと思わされます。

まとめ

今日は、食事の規定の箇所から、生活の中で神様を見ることが重要だと教えられました。私達の生活の課題を祈るところから始めていきたいです。また、滅ぼさない神様を思い起こすこともできました。憐みと、イエス様の十字架の赦しによって、神様を表す存在とされたことを覚えていきましょう。今週も、聖霊に励まされ日々を歩んでいきましょう。