十字架
コロサイ人への手紙 3:2 – 4

神のうちに隠されている命

礼拝メッセージ

説教者:海師
2024.1.14礼拝説教
説教題『神のうちに隠されている命』
【説教箇所】コロサイ3:2 – 4

3:2 上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。
3:3 あなたがたはすでに死んでいて、あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されているのです。
3:4 あなたがたのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに栄光のうちに現れます。

〈新改訳2017〉
コロサイ人への手紙 3:2 – 4

神様のために何かをする姿勢

 新しい年になり、私達は新しい目標を立てたり、抱負を語り合ったりします。誰かの目標を聞く時、たとえ小さい目標でも、大きすぎるように思える目標でも、昨年とは違った自分に成長しようとする姿勢に感銘を受けることがあります。年が変わるだけで、まっさらな新しいページを開くような希望があるのだと思うとすごいです。クリスチャンはよく、「神様のため、イエス様のために何ができるか」という方向性で、抱負を語る人がいます。私達も神様中心の考え方をしたいと思わされます。どうして、自分の人生なのに、自分のためではなく、キリストのためなのか、コロサイ人への手紙に書いてあります。

地上にあるもの

 パウロは、コロサイの教会に向けて手紙を書きました。異端の教えが流行していたことが理由としてあるようです。異端だけでなくて、地上にあるいろんなものが人々に影響していたと考えられています。したがって、コロサイの人が何か新しい決断をしようとする時は、儀式を守るための教えや定め、支配者との力関係、また、どの層に属している人が重く受け止められるべきかなどといった基準がまず先にあって、真新しいページに何かを描くというよりも、何かに追われている状態であったと思われます。クリスチャンは、地上にあるものに支配される存在ではないとパウロは言うのです。

①上にあるものを思う

 2節を読みましょう。

3:2 上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。

地にあるものを思わないというのは、自由な発想です。そして上のものとは、イエス様のことです。コロサイの手紙には、キリスト讃歌と呼ばれる、イエス様のすばらしさを歌った箇所が多く含まれていて、当時のクリスチャンたちが歌っていた歌詞ではないかと言われます。パウロは賛美を使って、みんなの目を上に上げるようつとめたのではないでしょうか。海外の音楽チャンネルで、クリスチャンのアーティストかどうか判断するなら、曲の中身を聞くのが手っ取り早いです。クリスチャンアーティストは、イエス様がご自身を犠牲にして、全ての人のために十字架にかかって死んでくださったという、福音を歌にしていることが多いです。「自分はこう思う」という気持ちを含んだ曲の源にはイエス様がおられます。イエス様は旅人をもてなし、神様の御声を聞き、汚れていると呼ばれている人に近づき、触れて、清め、父なる神様を表すために生涯を送られたという事実が、歌手たちに様々な歌を歌わせているのです。私達の自由な発想は、イエス様の確実な犠牲の上に成り立っています。

②命はキリストとともにある

 3節を読みましょう。

3:3 あなたがたはすでに死んでいて、あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されているのです。

「キリストとともに神のうちに隠されている」とありますが、いのちがイエス様にぴったりくっついている、すなわち私達の側ではなく、神様側にあずけられていると言うことです。ですから、私達が洗礼式で信仰を形に表すように、命はイエス様の死と一緒に死んだときに終わって、イエス様のよみがえりと一緒によみがえり、新しい人生を歩み始めたということです。まさか自分の人生が一回終わるという決断をしていたとは、小学生で洗礼を受けた時には考えていませんでしたが、「イエス様から新しくもらった命を、イエス様のために使っていくんだよ」と教えられたことを覚えています。ですからクリスチャンのゴールというのは、私達の設定するゴールとは枠組みが違って、イエス様のゴールに焦点を当てたいと思わされるのです。実際イエス様は再臨という、もう一度この地上に来られるということも約束されていて、その時も私達はイエス様をしっかり賛美していたいのです。

隠れていることと現れていること

 神様側に命があるけれど、この地上で生活している私達です。クリスチャンの隠れている性質が、どんな風に表に出るのか気になりませんか?あるクリスチャンは一年の目標を「○○を手に入れる」から、「分け与えるために○○を手に入れる」に変えることをお勧めしていました。また、「健康」から「他の人を愛するためのエネルギー」、そして、「聖書を読む」から「他の人を愛するための魂の蓄えとして聖書を読む」という風にしたらどうかという提案で、面白いです。コロサイ人の手紙の3章の最後の部分と4章は家族とどう関わるか、どう愛を表すかということも書いてあり、隠れている私達の命が、どのように外にあふれていくのか想像することができます。私達には、与えられた賜物があって、神様のために、人それぞれ様々な生き方として現れていきますが、その大もとには、今日見て来た、命が神様に隠れている、というスタート地点があると思います。

★まとめ
 私達にはイエス様という自由があります。今日見たように、私達は、私達のために確実に生涯を全うされたイエス様を覚えて歩みたいです。また、私達の命はイエス様と一緒にあることを見ました。自分の人生というより、神様に与えられた人生なのだと覚えて、今週も聖霊に励まされ神様を賛美しつつ歩ませていただきましょう。