アモス書7:10ー17

主は言われる

礼拝メッセージ

説教者:八木原知宏師
2024/6/30 礼拝説教
【説教題】「主は言われる」
【聖 書】アモス書7:10-17

7:10 ベテルの祭司アマツヤは、イスラエルの王ヤロブアムに人を遣わして言った。「アモスは、イスラエルの家のただ中で、あなたに謀反を企てています。この国は彼のどのことばも受け入れることができません。
7:11 アモスはこう言っています。『ヤロブアムは剣で死に、イスラエルはその土地から必ず捕らえられて行く。』」
7:12 アマツヤはアモスに言った。「先見者よ。さあ、ユダの地へ逃げるがよい。そこでパンを食べ、その地で預言するがよい。
7:13 ベテルでは二度と預言するな。ここは王の聖所、王国の宮だからだ。」
7:14 アモスはアマツヤに答えた。「私は預言者ではなかったし、預言者の仲間でもなかった。私は牧者であり、いちじく桑の木を栽培していた。
7:15 しかし、【主】が、群れの世話をしていたところから私を取り、【主】が私にこう言われた。『行って、わたしの民イスラエルに預言せよ』と。
7:16 今、【主】のことばを聞け。あなたは『イスラエルに向かって預言するな。イサクの家に向かって戯言を言うな』と言っている。
7:17 それゆえ、【主】はこう言われる。『あなたの妻は町で遊女となり、あなたの息子、娘たちは剣に倒れ、あなたの土地は測り縄で分割される。あなたは汚れた土地で死に、イスラエルはその土地から必ず捕らえられて行く。』」

アモス書7:10-17

神様は、いつの時代も人々の救いを求めておられ、そのためにわたし達に務めを与えているのです。聖書の中にも、その神様の思いと言葉を受け取り、人々に神様の言葉を伝えた人が多く居ます。旧約聖書の中の預言者である「アモス」もその一人でした。本日は、アモス書を通して、人々に神様の言葉を伝えることを考え、力づけられる時になることを願います。

主は言われる

罪の中では、神の言葉は心地が悪い

今日の冒頭の箇所でべテルの祭司アマツヤが「この国は彼のどのことばも受け入れることができません。」(7:10)と言うように、アモスが語る神の言葉は、この聖書の時代において聞きたくない言葉だったようです。その理由は、アモス書全体に書かれている言葉と共に、アモス書の時代背景を見えてきます。アモスが生きたのは、【ユダの王ウジヤの時代】【イスラエルの王ヤロブアムの時代】の時代です(1:1)。両者の国は神様によって栄えていました(Ⅱ列王記14:23-27,Ⅱ歴代誌26:1-5)。しかし、イスラエルの民は、その神様を忘れて罪を犯します。貧しい人は、富む人に搾取され、神殿の前では人々が騙しあい(2;6-16)、おしまいには、異教の神を選ぶようになる(5:25-26)。神を見ずに自分勝手な姿は、代々イスラエルの民が継いだベテルの神殿(創世記28章)に仕える祭司が、アモスの預言を止めるところからも見えてきます(7:12-13)。罪の中に居るとき、神の言葉は心地が悪い時があります。けれど、すべての人に神様の恵みは注がれようとしています。その神様の大きな恵みに応えて、その方々のためにもわたし達はますます熱心に祈り、福音を伝えましょう。

神は伝える人を立たせる

べテルの祭司アマツヤの言葉に対するアモスの返答を見た時に、わたし達は、神様の言葉を語る人について考えることが出来ます(7:14-15)。
アモスは、預言者ではなかった。羊の群れを世話する牧者であり、いちじくの木を栽培する農家でした。しかし、主はそんなアモスを選び、語りました(7:15)。その神様の召しに従ってアモスは語りました。
彼の話し方に特徴があります。それは、人の耳や熱いと感じる体感、目に浮かぶような情景等、人の五感に働きかけるような話し方です(1:2、3:8、7:8)。べテルの祭壇の前を行き交う人々は、王でも預言者でも祭司でもない一人の男の言葉を無視できませんでした。語られる情景をイメージし、ある人は震え、ある人は怒ったことでしょう。
十字架と復活を信じた私たちもわたし達もまた、神の言葉(福音)を聞いた者であります。そして、福音を伝える者と立たされています。わたし達は、伝道をする際に、自分の環境や立場を言い訳にすることはできません。むしろ、神様はそれらを用いようとされます。神がわたし達を取られ、立たせたのだということを信じて伝道して行きましょう。

伝道の中心は私たちの思いではなく、神様の思い

アモス書の中で神は怒りを知ると同時に、神のイスラエルの民に対する思いを知ることが出来ます。「わたしを求めて生きよ。(5:4)
神様は、イスラエルの民と一緒に生たかったのに、イスラエルの民は神の思いを裏切ってきたのです。しかし、アモス書の最後はイスラエルの国の回復で終わります(9:11-12)。神の怒りの背景は「愛」であり、その愛が言葉の中心でした。新約聖書の使徒の働きでは、いろいろな国の人が救われることがアモス書の神の約束(9:11-12)の成就であると考えられました(使徒の働き15:16-17)。神様は、怒られる方であると同時に、全ての人が救われてほしと願われる方であるのです。その証拠がイエス様の十字架と復活である福音です。わたし達も人からこの福音聞きました。そして、信じたことで救われました。今度はわたし達が伝える番です。
わたし達は、伝道をする前から様々なことを考えてしまいます。しかし、聖書には「多くの人に救われてほしい。」という神様の愛とそのことを伝えるために神様がわたしたちを取り、立たせたという真実と希望が記されています。この真実と希望は、私たちに福音を語る勇気を与えてくれます。

【結び】
キリストの福音は、永遠に続く、何があっても消えない希望です。その希望を待っている人がいます。わたし達は、聖霊により頼みながら、自分の家族、友人、周りの人々に神の愛の証拠であるこの福音を伝えて行きましょう。聖霊はそのことを助けて下さいます。神の声に従って、伝道していきましょう。