十字架

最初のアダムと最後のアダム

礼拝メッセージ

【礼拝説教要旨】佳子師
テーマ: 復活が与える希望
説教題: 「最初のアダムと最後のアダム」
テキスト: Ⅰコリント15:45~49

15:45 こう書かれています。「最初の人アダムは生きるものとなった。」しかし、
最後のアダムはいのちを与える御霊となりました。
15:46 最初にあったのは、御霊のものではなく血肉のものです。御霊のもの
は後に来るのです。
15:47 第一の人は地から出て、土で造られた人ですが、第二の人は天から
出た方です。
15:48 土で造られた者たちはみな、この土で造られた人に似ており、天に属
する者たちはみな、この天に属する方に似ています。
15:49 私たちは、土で造られた人のかたちを持っていたように、天に属する
方のかたちも持つことになるのです。

【新改訳2017】Ⅰコリント15:45~49

最初のアダム

神が創ってくださった最初の人間アダムは、エバと共に悪魔である蛇にそそのかされて禁断の木の実を食べてしまう。

創2:16 神である【主】は人に命じられた。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
2:17 しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」と言われた。
これに対して蛇は、「それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです。」とエバをだますのである。
3:6 そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。それで、女はその実を取って食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫も食べた。

こうして、アダムの罪のゆえに全人類は肉体の死を経験する者となった。

最後のアダム

最後のアダムとはだれか?それは、イエス・キリストである。
キリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられた(Ⅰコリ15:20)。キリスト者は、十字架による罪の赦しと復活を宣べ伝えている。もし、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教も信仰もむなしいものになってしまう(Ⅰコリ15:14)。
そして、復活を伝えるなら偽証していることになる。だが、復活は事実あったのだ。復活された主は、500人以上もの人々に表れ、イエスの兄弟ヤコブや使徒たち、またパウロに現れた(Ⅰコリ15:6~8)。この復活を信じるすべての人は生かされる。キリストが復活されたゆえに、キリスト者は皆、イエスの再臨の時に復活する。そのとき、人類の最後の敵である死は滅ぼされる。
主の再臨のとき、死んでいた信徒たちはラッパの響きとともに一瞬にして朽ちないものによみがえる。そのとき、「死は勝利にのまれた」というみことばが実現する。それは失望を与えていた死に対する最終的な勝利の日である。

Ⅰテサ4:16 すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、
4:17 それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。

こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

復活が与える希望

卑しい血肉のからだが御霊に属する栄光のからだに生まれ変わることが、復活を信じる者の大きな希望である。以前クリスチャンを迫害していたパウロは、復活のイエス・キリストに出会い180度の転換をした。彼は宣教活動の中でどんなに苦しい目にあっても、なぜか喜んで生きていた。ある時は牢屋に入れられ、むち打たれ、死に直面したこともしばしばあった。三十九のむち、石打ち、難船で一昼夜海上を漂い、川の難、盗賊の難、様々な困難を経験した(Ⅱコリント11:23~27)。そのような目にあってもなおパウロが宣べ伝えたのは、この復活の希望があったからなのだ。
だからこそパウロは、死から勝利する約束を与えられているがゆえに、日々主にあって信仰生活に励めと言うのである。
Ⅰコリント15:54 そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。「死は勝利にのみ込まれた。」

15:55 「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。
15:56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
15:57 しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
15:58 ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。

結び)十字架と復活は、私たちの信仰の二本柱である。十字架で罪の赦しを与えられた私たちは、復活によって永遠の命の確信を得た。復活があるなら、私たちの労苦はむだになることはない。私たちは、復活の希望をもって日々主のわざに励もうではないか。