
この方に罪は無い!
2025/4/13 礼拝説教
【テーマ】 十字架
【説教題】 「この方に罪は無い!」
【聖書箇所】 ルカ23:39-47
【説教者】藤井敬朗牧師
23:39 十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った。
23:40 すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
23:41 おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」
23:42 そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」
23:43 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」
23:44 さて、時はすでに十二時ごろであった。全地が暗くなり、午後三時まで続いた。
23:45 太陽は光を失っていた。すると神殿の幕が真ん中から裂けた。
23:46 イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。
23:47 百人隊長はこの出来事を見て、神をほめたたえ、「本当にこの方は正しい人であった」と言った。
ルカ23:39-47
○ 来週はイースターです。今週の金曜日が受難日です。今日はイエスが十字架で息を引き取られる前後の場面を取り上げました。
死刑囚の言葉
犯罪人1
1.3人の十字架刑が実行されました。それは犯罪人二人とイエスです。その犯罪人のうち一人は天国へ行きましたが、もう一人はさだかではありません。多分ダメだったでしょう。その一人の犯罪人の言葉は イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」 でした。彼は悔い改めていないのです。
2.しかし、彼の言葉に おまえはキリストではないか とあります。この言葉はイエスをキリスト、つまり救い主と認めている言葉でしょうか? イースターは「イエスの復活祭」と知っていてもみんながイエスの復活を信じているわけではありません。この犯罪人もイエスのしたことは見聞きしたかも知れません。しかし、自分とは関係が無いのです。
3.もしイエスが自分を十字架から降ろしてくれたら、イエスが救い主と信じたかもしれません。それなら彼にイエスを信じさせるために、ここでも彼を十字架から降ろすという奇跡をおこなってやれば良かったのではないでしょうか? でも、イエスはそうなさいませんでした。イエスが病気を癒したり、死人を生き返らせたり、水の上を歩いたり、パンを増やしたりという奇跡をおこなわれているのに、ここではなさいませんでした。イエスが奇跡をおこなわれる条件は何か? 私たちにはわからないかも知れません。しかし、 マルコ 6:5-6 それで、そこでは何一つ力あるわざを行うことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。イエスは彼らの不信仰に驚かれた。 とあるのを見ると、信仰と関係があるのかも知れません。それと神の計画もあります。
犯罪人2
1.一方もう一人の犯罪人は悔い改めています。その彼には 「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」 と言われました。大事なのは わたしとともに です。イエスは十字架刑で裁かれていますが、天国におられるのです。そのイエスと共にいるなら天国です。私たちがこの地上ででもイエスと共にいるならそこは天国です。
2.このことからも天国に行ける、行けないは私たちが自分で決めたり、自分の努力でできるものではありません。それを決めることができるのはイエスだということがわかります。この後、天国へ行けた犯罪人の言葉からイエスはどういう人を天国へ導かれるのか見てみましょう。
犯罪人の告白
心からの悔い改め
1.天国へ行けた犯罪人の最初の言葉は 「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。」 と、イエスをののしった犯罪人に言いました。この言葉から彼は自分の罪を認め、悔い改めていることがわかります。
2.悔い改めている人は決して「悔い改めたのだから救ってくれ!」というようなことを言いません。罪の処罰を受けるのは当然と思って、その罰に服しています。私たちも祈りの中でこれだけ悔いたのだから祝福してもらえるのではないか、とどこかで「自分の願いをかなえてもらえるのでは」と、期待してしまうことはないでしょうか? 心からの悔い改めが必要なのです。
イエスは正しいと認めた
1.二つ目は 「だがこの方は、悪いことを何もしていない。」 とイエスに罪の無いことを言っています。この罪はイエスの十字架で赦される「原罪」ではなく、ユダヤ人としての律法に反する罪のことです。彼はイエスが律法的にも正しいことを行い、また語っていたことを認めているということは、犯罪を犯しつつもイエスを見ていたのではないでしょうか。
2.彼は牢獄に入れられてもイエスのことが気になっていたのかも知れません。そのイエスのそばに来ることができたのですが、それは手を伸ばしても触ることのできない十字架の上でした。でも、他の誰よりもイエスに近い場所だったかも知れません。彼はイエスと話ができることが苦しみの中にありながらも嬉しかったでしょう。私たちも苦しみの中にあってもイエスがそばにおられ、イエスと話せると嬉しいではありませんか。
イエスは御国の王と信じた
1.三つめは 「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」 彼はイエスがここで死んでしまうにも関わらず、イエスは天国に行くと信じています。ただ、それが 御国に入られるとき と、そういう時がいずれ来ると思っています。それに対して、イエスは 「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」 と言われました。「今日」だというのです。
2.しかもこの犯罪人は罪が赦されたことがわかります。ただし、彼の罪が赦されても彼は十字架で殺されています。この地上での罪に対して彼は処罰を受けなければならないのですが、原罪は赦されて彼も天国へ行けるというのです。
百人隊長の告白
異邦人も認めるイエス
1.ローマ兵の百人隊長、彼は異邦人で、皇帝を神と教えられていたと思います。その百人隊長がここで 神をほめたたえ、「本当にこの方は正しい人であった」と言った。 と言っています。皇帝をたたえるのではなく、神をたたえたのです。そして、イエスを正しいとしたのです。つまり、十字架刑に値しない人だと言っているのです。とすれば、十字架にかけたローマ兵やローマの総督ピラトのしたことは神の前にどうなるのか恐れたことでしょう。
2.百人隊長はこのユダヤ地方の安全のためにローマから派遣された兵士を束ねている管理職です。この地方でイエスのために騒動が起こってきていましたから、彼もイエスを見張っていたことでしょう。初めは問題の人物として見ていたかも知れませんが、調べていくうちに彼はイエスに気持ちが惹かれていったのでしょう。
イエスの言葉に感動した
1.イエスが息を引き取られた時、 全地が暗くなり、午後三時まで続いた。太陽は光を失っていた。すると神殿の幕が真ん中から裂けた。 という出来事が起こりました。そして、 イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」 と言って息を引き取られました。この出来事はまさに救いの成就を示しています。
2.この十字架上のイエスの言葉は百人隊長が聞いた今までの犯罪人の誰も言ったことの無い言葉でした。イエスの父はまさに神。誰をも恨まず、罵ることもせず、怒ることも無く、ただ神に信頼して委ねておられる姿に、百人隊長の心はどんな状態になったでしょうか。彼はすごく感動が込み上げてきたかと思うのです。このお方と共にいたかったと。
● イエスの復活後、百人隊長はどうだったのでしょう?
★ あなたも今日の聖書の言葉を読み、十字架の前にいるわけです。このイエスの言葉をあなたはどのように聞きましたか? 百人隊長の用にでしょうか? またあなたは二人の犯罪人のどちらですか? 二人とも罪人です。私たちを代表しています。あなたはイエスと何を語り合いますか?
Posted by shinnakano
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