
カインとアベルのささげ物
★ 礼拝説教要旨 ★
2026.2.15礼拝
テーマ: 神に受け入れられる礼拝
説教題: 「カインとアベルのささげ物」
テキスト: 創世記4:1~7
4:1 人は、その妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「私は、【主】によって一人の男子を得た」と言った。
4:2 彼女はまた、その弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは大地を耕す者となった。
4:3 しばらく時が過ぎて、カインは大地の実りを【主】へのささげ物として持って来た。
4:4 アベルもまた、自分の羊の初子の中から、肥えたものを持って来た。【主】はアベルとそのささげ物に目を留められた。
4:5 しかし、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それでカインは激しく怒り、顔を伏せた。
4:6 【主】はカインに言われた。「なぜ、あなたは怒っているのか。なぜ顔を伏せているのか。
4:7 もしあなたが良いことをしているのなら、受け入れられる。しかし、もし良いことをしていないのであれば、戸口で罪が待ち伏せている。罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。」
創世記4:1~7
ささげ物
アダムとエバの間に、カインとアベルが生まれた。「アベルは羊を飼う者となり、カインは大地を耕す者となった。」(創4:2)彼らはそれぞれ仕事を行うようになって後、主へのささげ物を持ってきた。「ささげ物」とは、主がそれぞれの仕事を守り祝福してくださったことに対して、それぞれの産物の一部を主にささげることである。彼らは、両親から「神である主」の事を教えられていただろうし、また両親が労働で得た物の一部をささげるのを見ていたであろう。
カインとアベルは、二人とも神にささげた。にもかかわらず、神はアベルのささげ物を認められた。彼らの職業に問題があったわけではない。土を耕す働きも必要であったし(創2:15そこを耕させ、また守らせた。)、牧畜の仕事も必要であった(創1:28すべての生き物を支配せよ。)。では、ささげた物が問題だったのか。しかし主は、羊だけでなく、穀物のささげ物も受け入れてくださっている。ずっと後の時代になるが、モーセの律法によれば、動物のささげ物(血を流すささげ物)と穀物のささげ物(血を流さないささげ物)とが詳しく記されている。
カインとアベルの違い
主は、ささげ物そのものに目を留められたのではなく、「カインのささげ物」、「アベルのささげ物」とあるように、ささげた人自身を見ておられた。
カインは両親からささげものをするように言われたから、ささげただけかもしれない。また、神との関係を維持するために、ただ事務的に地の作物から主へのささげ物を持って来たともとれる。それはきわめて形式的で心からの感謝がないのではないか。
一方、アベルは、「自分の羊の初子の中から、肥えたものを持って来た。」(新改訳第三版4:4 アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た)。彼は、自分の持っているものの中で最も良い物を選び、それを持ってきた。たいていの人は、持ち物で最も良い物、高価な物があれば、それを出し惜しみするのではないだろうか。しかしアベルは、神こそ最良の物をささげられるべきお方だと思ったのである。さらに彼は、自ら進んで心を込めて、そして信仰をもってささげた。
ヘブル11:4には次のように書かれている。「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神に献げ、そのいけにえによって、彼が正しい人であることが証しされました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だと証ししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって今もなお語っています」。
このように、カインとアベルの違いは、「最良のもの」をささげようとする神への態度、すなわち信仰にあることは明らかである。
神が受け入れられるささげもの
後にイエスも、貧しいやもめのささげ物から、その女の信仰を賞賛している。マルコ12:43イエスは弟子たちを呼んで言われた。「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。」多くの金持ちがこれ見よがしに大金を献金箱に投げ入れているのに対して、やもめは持っている物のすべてであるレプタ銅貨2つを投げ入れたのだった。ささげ物とは信仰そのものである。
ささげ物は神の要求によるものではない。それは、自発性や感謝の表現である。「礼拝」というものが人間自身によるものであることを暗示している。
今年度の教会テーマ聖句「ローマ12:1あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」は、主イエスご自身が神にささげられた後の時代において、信仰者である私たちのからだを生きたささげ物としてささげよと言われる。私たちはこの世に生きている。それゆえ、教会生活と日常生活に生きる自分自身を神にささげるのだ。私たちの生活そのものが「神に喜ばれるもの」つまり「神に受け入れられるもの」であり、それこそが神への礼拝なのである。旧約の時代には、ささげ物をささげる場所や時、祭司や祭儀の道具が必要とされたが、現代に生きる私たちは、いつでも、どこででも礼拝をささげることができる。かと言って、聖日礼拝を軽んじているわけではない。私たちは、日々の生活の中で、また聖日礼拝で、自分自身をささげ神を礼拝するのだ。それは、御言葉に親しんでいる時であり、祈りの時でもある。神へ心を向けられている時すべてが礼拝と言えるだろう。
結び)
アベルは自分の持っている羊の中で最高のものを神にささげた。そこには、神への真の信仰があった。私たちはどうか?この世の日常生活に流されることなく、神に心を向けて、自分自身をおささげしようではないか。
Posted by shinnakano
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