恋は盲目、いや、愛は盲目
恋は盲目、いや、愛は盲目

恋は盲目、いや、愛は盲目

礼拝メッセージ

2022/3/6 礼拝説教
【テーマ】  一方的な神の愛
【説教題】 「恋は盲目、いや、愛は盲目」
【聖書箇所】 創世記29-30章

29:15 ラバンはヤコブに言った。「あなたが私の親類だからといって、ただで私に仕えることもないだろう。どういう報酬が欲しいのか、言ってもらいたい。」
29:16 ラバンには二人の娘がいた。姉の名はレア、妹の名はラケルであった。
29:17 レアは目が弱々しかったが、ラケルは姿も美しく、顔だちも美しかった。
29:18 ヤコブはラケルを愛していた。それで、「私はあなたの下の娘ラケルのために、七年間あなたにお仕えします」と言った。
29:19 ラバンは、「娘を他人にやるよりは、あなたにやるほうがよい。私のところにとどまっていなさい」と言った。
29:20 ヤコブはラケルのために七年間仕えた。ヤコブは彼女を愛していたので、それもほんの数日のように思われた。

創世記29-30章

○ 私の教え子の中には恋をして成績が落ちる子と逆に成績が上がる子がいました。恋に夢中になりすぎて勉強が手に着かないために成績が落ちてしまう生徒。反対に彼と(彼女と)同じ高校に入りたいという思いから一生懸命勉強して成績がグッと上がった生徒がいます。恋の力のすごさですね。今日のテキストにはヤコブがラケルに恋をして一生懸命働くところが書かれています。

大事な人との出会い

花嫁探しの旅に出る

    1.ほんの一部だけ読んでいただいたのですが、今日の話はヤコブが妻を得る話です。前回話しましたように、ヤコブは母リベカの思いを受けて父イサクから祝福してもらうために兄エサウと父イサクをだましました。そのために、エサウに殺される可能性が出てきました。そういうことも考えずにだましたのでしょうか?

    2.ヤコブは故郷を離れて母の故郷に逃げなければなりませんでした。また、母リベカにすると、その地域の女性が気に入らなかったので、愛するヤコブには父のところにいる女性が良いと考えたのです(アブラハムがイサクの花嫁を探すときと同じですね)。ヤコブはエサウから逃げることと同時に花嫁探しに出ることになりました。

ヤコブはラケルに一目惚れした

    1.そして、遂にハランに着きました。その井戸のところでヤコブはラケルと出会い、彼女に一目惚れしてしまいました。この話もアブラハムのしもべがイサクの花嫁を探すときと似ています。が、大きな違いがあります。アブラハムのしもべは祈りました。が、ヤコブはどうも祈っていないようです。

    2「恋は盲目」と言いますが、まだヤコブもラケルもお互いにどんな人なのか知らないままに結婚したいと思いました。一目惚れが悪いわけではないです。ある方は「初恋の人と結婚できるのは最高に幸せだ」なんて言いましたからね。

大事な人だから

だまされてもなお働いた

    1.ヤコブはラケルの父(母リベカの兄)ラバンに結婚させて欲しいと申し出ます。ラバンも妹リベカの息子と知って、大賛成します。 

ヤコブはラケルを愛していた。それで、「私はあなたの下の娘ラケルのために、七年間あなたにお仕えします」と言った。 

創世記 29:18

と、7年間ラバンのもとで働くことでラケルとの結婚を許してもらうことにしました。その7年間は ほんの数日のように思われた と言いますから、恋の力の凄さを語っています。

    2.これで晴れて二人は夫婦となれる予定だったのですが、なんとヤコブのところに連れて来られて夫婦となった相手は姉のレアだったのです。ラバンにだまされたことになります。話が違うと訴えると、 

ラバンは答えた。「われわれのところでは、上の娘より先に下の娘を嫁がせるようなことはしないのだ。この婚礼の一週間を終えなさい。そうすれば、あの娘もあなたにあげよう。その代わり、あなたはもう七年間、私に仕えなければならない。」 

創世記 29:26-27

と言われてしまいました。

たとえ火の中、水の中

    1.ヤコブは愛するラケルのためにさらに7年間の仕事をすることになりましたが、それくらい何のその、やってのけるのです。愛する人のためならたとえ火の中、水の中ではないでしょうか。ヤコブはラケルのためならさらに7年間くらい問題ではありませんでした。

    2.イエス様を考えてみましょう。イエス様は私たちに一目惚れで、その愛をとことん貫かれます。私たちのためならたとえ火の中、水の中です。そして、愛する私たちのためならたとえ十字架であってもかかることをためらわれませんでした。

神にとって大事な私たち

こんな人がどうして・・・

    1.ヤコブは父とエサウをだまし、ラバンのところに逃げてきました。あまり信仰的な人と思えないのです。なぜ、こんなヤコブが神様に愛されるのかと考えてしまいます。そう考えているとふと、ルカの福音書に出てくるザアカイさんが思い出されました。

    2.ザアカイさんは人々からの嫌われ者の税金取りでした。彼は自分の地位を利用して人から本来の税金より多くを取り立てて自分の懐に入れていた人です。そこにイエス様は行かれてザアカイさんの友達になられます。町の人々はイエスともあろうお方がなぜザアカイみたいな人のところに行くのかと思いました。

一方的な愛で

    1.しかし、イエス様は町の人の言葉も気にせず、ザアカイさんの家に行きました。悪口を言う人々にイエス様は 

「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」 

ルカ19:9-10

と言われました。神にはこんな人ではダメだということはないみたいです。

    2.ヤコブがなぜ神様に愛されるのか、別に彼が立派だからとかではなく、神の子だから一方的に愛されているのです。私たちも神に造られた神に愛されている子どもです。私たちが何かできるから愛されるのではなく、神様の一目惚れで一方的に愛されているのです。「恋は盲目」いえ、神様の場合は「愛は盲目」なのです。イエス様を信じる人のために全ての罪に目をつぶってくださったのです。そのためにイエス様は十字架にかかって私たちの身代わりになってくださいました。

★ あなたも罪人ですが、神様に愛されているのです。神様はイエス様が十字架で身代わりになってくだったので、私たちの罪に対して目をつぶられました。そして、ひたすらあなたのことを愛し続けてくださっています。この愛に応えませんか。