教会をほっとできる場所に

教会をほっとできる場所に

子育て通信

◆教会をほっとできる場所に◆
(藤井敬朗の人生を神様に感謝しながら書いています)

ほっとできる場所がない

  1月6日(金)の朝日新聞・朝刊にこんな記事を見つけました。

   頼れる人 「なし」 11.3%
 新宿区によると、 トー横と呼ばれる広場は区道で、 区や商店街などで構成された一般社団法人が管理、運営する。 若者が増えるにつれ、わいせつや傷害など事件が相次いだ。 警視庁は昨年末、 中高生を含む13歳~18歳の20人を一斉補導した。
 若者が集まる場所では、 大阪・ミナミの「グリ下」、名古屋・栄の「ドン横」も知られる。
 内閣府のインターネット調査 (2019年度)では、13~29歳の男女1万人のうち5.4%が、「ほっとできる場所」が 「どこにもない」と回答。 困った時に「どこにも助けてくれる人がいない」 という回答も11.3%あった。

  1月6日(金)の朝日新聞・朝刊

  「ほっとできる場所がどこにもない」「どこにも助けてくれる人がいない」という若者がたくさんいるということには心が痛みます。

怖がりの私(小学生時代)

  私はHSC(繊細な子ども)だったので、小学生の時もなにかしらビクビクしていました。でも、友だちが良かったのだと思います。私には教室に居場所がありました。正直なところ、6年間、先生は助けにはなりませんでした(悪い先生という意味ではありません)。でも、数名の友だちが仲良くしてくれたことで、私は学校を楽しめたのだと思います。
  ジャングルジムが怖くて上れなかった私と一緒にその友だちは上ってくれて、楽しめることを教えてくれました。そのお陰で段々怖くなくなったという経験があります。
  校庭や公園にあった遊具(今は色々な遊具が危険ということで撤去されていますが、その頃は色々ありました)も怖かったのですが一緒に遊んでくれたのでこれも段々怖くなくなり、楽しめるようになりました。
  また一緒に裏山に虫採りにも行きましたし、怖がる私に崖上りも教えてくれました。おかげで色んなことを楽しめました。

5年生まで泳げなかった

  水が怖くて5年生まで泳げなかった私を夏休みのプールに誘ってくれて、色々教えてくれたのも友だちです。私は水の中で目を開けられなかったので泳げませんでした。母は洗面器に水を入れて顔を浸けるように言うのですが、息ができないことや、目が開けられないことでちょっと水に顔を浸けては、すぐ顔を出してしまうような子でした。
  5年生の夏休み、友だちが学校のプール開放に誘ってくれました。その時、友だちはふざけて、私をプールサイドから落としたのです。私は水をがぶ飲みしてしまいました。心臓はバクバクです。が、この時、突然だったので目を開けていたのです。すると、プールの底がぼんやり見えたのです。「あれ、水の中で目を開けられる!」と、私は大発見しました。実はこれで泳げるようになったのです。それからはプールが大好きになり、この夏休みに学校のプール開放だけでなく、市民プールにも友だちと何度も出かけました。

居場所の無い中・高3年生

  中学生になった頃はだいぶ色々なことに慣れてきていました。おかげで1-2年生の間は楽しく過ごせたのですが、3年生になった時、どうもクラスの雰囲気が良くなくて、他の6クラスとは雰囲気が違い、なじみにくかったのです。この時は「居場所が無い」ように感じて居辛いクラスでした。私も悪ぶってみたりしました。教室の掃除用具箱を素手で割ってみたり、黄緑色のカッターシャツを着て登校したりもしました。しかし、そんなことでクラスになじめるわけではありませんでした。早く卒業したくてたまらない日々でした。そのために卒業後も同窓会には一度も出席しませんでした。

  高校生の時も同じように3年生のクラスが私には合わないクラスで、他の9クラスとかなり雰囲気が違っていました。この時は敢えて悪ぶることはしませんでしたが、度々隣のクラスに出かけていました。1年生の時に心臓検診でひっかかったため、運動部には入れなかったので、同じような友だちと毎日放課後、校外をジョギングしていました。この数名の友だちとは仲が良かったので、3年生でクラスが違っても何とかもった感じです。

彼らのことがわかる

  学校自体は嫌いではなかったのですが、自分のクラスに居場所を感じられないのは辛いものです。自分を捨てて、クラスの雰囲気に合わせようと努力もしました。愛想笑いをし、言いたくもない嫌な話もしました。早く卒業したかった中3、高3でした。もし私がHSCでなければ、もっとうまくできたのかも知れません。ですから、今私はHSCの子どもや発達障害で居場所を失っている人の気持ちがわかるのかも知れません。わかるというのは理解できるというのではなくて、直感的にわかるということなんです。
  私はこの直感的にわかる感覚って大事と思っています。お母さん方が子どもの気持ちを直感的にわかってあげられるのはもしかすると脳の構造が男性脳と違うからかも知れません。

直感的にわかる

  しかし、私は18才でクリスチャンになりましたが、その時に知的に神を理解してわかったので信じたのではなく、直感的に神がいるとわかったのです。しかも、その神がイエス・キリストだとわかったのです。ですから、私は即座に「クリスチャンになる」と自分で決めましたし、「洗礼を受ける」と決めました。まだキリスト教の知識もありませんし、聖書を読んだわけでもないのにです。
  ところが、この感覚に似たものがHSCの子どもや不登校の子、いじめられている子などの気持ちが「わかる」というのと非常に近い感覚であることを感じるのです。
  説明は上手くできないのですが、わかるので、「辛いんだなあ」「親にも先生にも理解されなくて困っているだろうなあ」とか感じるのです。
  そこで、その直感的に感じるままに話をしていくと結構子どもが心を開いて話し出してくれるのです。

イエスにはわかる

  私がわかるのはわずかな子ども達の気持ちだけですから、全ての人の気持ちがわかるイエス・キリストは凄いなあと思います。そして、全ての人に必要なこともご存知なのです。
  ヨハネの福音書8章に「姦淫の現場で捕らえられた女性」の話があります。ユダヤの戒律ではこの女性は石打ちで殺されるはずでした。イエス様はそこで、訴えてきた長老達に「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」と言われました。罪の無い人などいませんから、年長者たちから始まり、一人、また一人と去って行きました。そこで、イエス様は、「女の人よ、彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さなかったのですか。」と言われると、彼女は言った。「はい、主よ。だれも。」イエスは言われた。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」と、彼女を赦されたのです。本来彼女は大変な罪を犯していたのですから罰を受けなければならなかったでしょう。しかし、彼女にしかわからない心を読み取り、彼女が心から悔いていることをわかっておられ、彼女に生きる道をお与えになりました。こういう話が次々出てきます。私の目標はイエス様です。イエス様のところがほっとできるところです。

ほっとできる場所に

  教会に来られる方や子ども達は幸せに過ごしている方ばかりではありません。誰もがくつろげて安心できる場所にするような力を私はもっていませんが、それでも一人でも多くの方、子どもが安心して居られる場所にしたいと思っています。ほっとできる場所にしたいですねえ。

 わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。

ヨハネの福音書14:27

子育て通信

Posted by shinnakano