ヨルダン川を渡ろう
神の声を聞いたなら

ヨルダン川を渡ろう

礼拝メッセージ

 2023/2/5 礼拝説教
【テーマ】  神の声を聞いたなら
【説教題】 「ヨルダン川を渡ろう」
【聖書箇所】 ヨシュア記3:7-17

  3:7 【主】はヨシュアに告げられた。「今日から全イスラエルの目の前で、わたしはあなたを大いなる者とする。わたしがモーセとともにいたように、あなたとともにいることを彼らが知るためである。
  3:8 あなたは契約の箱を担ぐ祭司たちに『ヨルダン川の水際に来たら、ヨルダン川の中に立ち続けよ』と命じよ。」

  3:14 民がヨルダン川を渡ろうとして彼らの天幕から出発したとき、契約の箱を担ぐ祭司たちは民の先頭にいた。
  3:15 箱を担ぐ者たちがヨルダン川まで来たとき、ヨルダン川は刈り入れの期間中で、どこの川岸にも水があふれていた。ところが、箱を担ぐ祭司たちの足が水際の水に浸ると、
  3:16 川上から流れ下る水が立ち止まった。一つの堰が、はるかかなた、ツァレタンのそばにある町アダムで立ち上がり、アラバの海、すなわち塩の海へ流れ下る水は完全にせき止められて、民はエリコに面したところを渡った。
  3:17 【主】の契約の箱を担ぐ祭司たちは、ヨルダン川の真ん中の乾いたところにしっかりと立ち止まった。イスラエル全体は乾いたところを渡り、ついに民全員がヨルダン川を渡り終えた。

ヨシュア記3:7-17

○ 高槻市を流れる芥川という川があります。子どもの頃、この川で泳いだのですが、つまり泳げるほどの深さ、水量があったわけです。今日のヨシュア記の話はイスラエルの民がヨルダン川の水の無い川底を難なく渡った話です。

ヨルダン川の水が堰き止められた

足を入れると水が堰き止められた

    1.エリコの町攻略のためには当然ヨルダン川を渡らねばなりませんでした。しかし、聖書を読むと ヨルダン川は刈り入れの期間中で、どこの川岸にも水があふれていた と書いてあるではありませんか。つまり普通では渡れないということです。

    2.ではイスラエルはどのようにしてそのヨルダン川を渡ったのでしょうか? 神が渡らせてくださったのです。その方法は ツァレタンのそばにある町アダムで立ち上がり、アラバの海、すなわち塩の海へ流れ下る水は完全にせき止められて と、川の水を神が堰き止めてくださったのです。そのためにイスラエルがしたことはというと、 箱を担ぐ祭司たちの足が水際の水に浸る だけです。そうすると水は堰き止められてしまったのです。

真似ができるのか?

    1.この話から「信仰をもって踏み出すのだ!」と一見信仰的なことを言う人がいます。その人にとっては、その人の信仰で良いのかも知れませんが、誰にでも当てはまるものではありません。

    2.私達は闇雲にヨルダン川に足を踏み入れて良いわけではありません。信仰をもって足を踏み入れれば水は堰き止められるというわけでもないのです。(ただしこの時の信仰というのは思い込みかも知れません。信仰と思い込みをごっちゃにしてはなりません)

神の言葉に従うこと

神の言葉に従うならOK

    1.ではどの様にすれば水は堰き止められるのでしょうか? ヨシュアは神からするように言われたことを実行したから水は堰き止められました。私達も同じです。私達にも神が足を水に入れるように言われたのなら、神の権威で水は堰き止められます。その神の権威のないところで水に足を入れてもダメだということです。

    2.ヨシュアのように神が言われるのを聞きたいと思いませんか。聖書も無く、イエスの十字架と復活も無く、聖霊の内住も無いヨシュアの時代には神が直接語る方法をとられました。しかし、今は違います(と言っても全くそういう神の声が無いと断言はしません)。

私達も神の声を聞けるのか?

    1.神の声を聞いて自分の人生を歩めたらどんなに幸いでしょうか。それはできるのです。ヨシュアはこの 3:7 【主】はヨシュアに告げられた。「今日から全イスラエルの目の前で、わたしはあなたを大いなる者とする。わたしがモーセとともにいたように、あなたとともにいることを彼らが知るためである。3:8 あなたは契約の箱を担ぐ祭司たちに『ヨルダン川の水際に来たら、ヨルダン川の中に立ち続けよ』と命じよ。」 と言う声を聞くために、そしてそれが神の声であるという確信を持つためには、長い年月かかっていることを見落としてはいけません。ヨシュアはモーセに語られる神、また、神の声を聞くモーセを見て信仰が成長してきた人です。

    2.私達もヨシュアのようにそうした地道な訓練があってこそ神の声を聞き分けることができるのです。私達は神の声を聖書を通して聞けるのです。しかし、自分勝手な解釈をしてはならないのですから、聖書を通して神がどのようなお考えをしておられるのか、神がどのようなお方なのかをじっくり時間をかけて知って行くのです。そして、内住の聖霊がくださる確信に従うのです。それには絶えず祈る必要があります。そうでないと、ちょっと感じただけで神の導きと思い込みますから、気をつけなければなりません。

ヨルダン川を渡る

神のわざが現れるため

    1.人生のヨルダン川で岸部に立ち、その水量を見てとてもこの川を渡れないと思って意気消沈している人はいませんか? イスラエル人もヨルダン川を渡らないと約束の地に入れないことはわかっていたでしょうが、水量の少なくなる時期まで待つこともできました。

    2.しかし、神はエリコの人々に神の力、神を信じる人達の勝利を見せるために敢えて水量の多い時を選ばれたと思います。それはイエスが盲人の目を開かれたときに言われた ヨハネ9:3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。 のように神に栄光を帰するためなのです。

さあ、渡ろうではないか

    1.時に私たちは人生のヨルダン川に足を踏み入れなければならないと思います。それがまた案外水量が多いのです。どこの学校に行くか? どこに就職するか? 転職した方がいいのか? 結婚相手は? 家を買うか? どこの病院に入院するか? 等々あるのではないでしょうか。当てずっぽうで決めていますか? 自分の考えだけで決めていますか?

    2.普段から神を礼拝して、祈っていると信仰が強められて、足を踏み入れる時がわかるようになるのです。あなたが信仰によって人生のヨルダン川を渡るのは神の栄光のためです。

★ あなたはヨルダン川の前で水量にビビっていてはならないのです。かといって自分勝手に足を踏み入れてはならないのです。悪魔の声に聞いて飛び込んでもいけないのです。神の声を聞いて一歩踏み出すのです。その神の声を聞く訓練が信仰生活でもあるのです。