ヨハネの福音書11章

内側に光を!

礼拝メッセージ

2023.7.21 礼拝説教
説教題:内側に光を!
説教者:八木原海伝道師
説教箇所:ヨハネ11:9-10, 17, 20,25-26, 39-40, 43-44

11:9 イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるではありませんか。だれでも昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。
11:10 しかし、夜歩けばつまずきます。その人のうちに光がないからです。」
11:17 イエスがおいでになると、ラザロは墓の中に入れられて、すでに四日たっていた。
11:20 マルタは、イエスが来られたと聞いて、出迎えに行った。マリアは家で座っていた。

11:25 イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。
11:26 また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」

11:39 イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだラザロの姉妹マルタは言った。「主よ、もう臭くなっています。四日になりますから。」
11:40 イエスは彼女に言われた。「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」

11:43 そう言ってから、イエスは大声で叫ばれた。「ラザロよ、出て来なさい。」
11:44 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたまま出て来た。彼の顔は布で包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」

ヨハネの福音書11:9-10, 17, 20,25-26, 39-40, 43-44

 クラゲは水族館で最近人気のようです。水槽の中でポワンと光って優雅に泳いでいます。実は体内の藻や体を構成する成分が光に反射しているだけで、発光しているのではないそうです。イエス様は人間の信仰について、昼間はつまずかないけど、夜は光を放っていないのでつまずいてしまう、とおっしゃいました。私達が「信じる」ことを可能にするイエス様は、ご自身の光を私達の内側に与えてくださいます。今日は、イエス様がラザロをよみがえらせるという有名な箇所から、内側に光を与えられた者の信仰を見ていきましょう。

内側に光を!

イエス様の栄光

 マルタ、マリアの兄弟であるラザロが病気だと聞いたイエス様は、ベタニアに行くことにします。同時に、この病が神の栄光のためのものだともおっしゃいました。ラザロに対してなされる奇跡が、イエス様の今後の歩みの予兆となるのです。すなわちイエス様も死から復活し栄光を受けるということです。

しかし、夜歩けばつまずきます。その人のうちに光がないからです。」

ヨハネの福音書11:10

 イエス様はあえてわかりやすく、イエス様ご自身の栄光が、信じる人の「うち」に輝くのだと言います。神を信じる理由も、信じない理由も私達の「そと」にあります。しかし、よみがえりのイエス様がおられることは事実なのです。

どこを通っても光り続ける

 イエス様がベタニアに着くころには、ラザロは亡くなって4日経過していました。兄弟を失ったマルタとマリアは悲しみに暮れていました。身内の者が亡くなったことが近隣の人々に告げられ、「もっと早くイエス様が来てくれれば」という思いが起こり、臭ってしまわぬよう遺体の安置された墓に蓋がされ、自分の目からは涙がこぼれてきました。真っ暗闇の中を歩くような気持ちだったでしょう。その中でイエス様は、マルタには次のようにおっしゃいました。

イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。

ヨハネの福音書11:25

 イエス様は死の悲しみにある人をからかっているのではありません。その証拠にマリアが泣き崩れた時に、イエス様は共に涙を流され心痛めました。死んでも生きると言ったのは、友の死の痛みを共に受けた上で、イエス様は「信仰」というテーマを提示したかったからです。死という、一番私達を信仰から遠ざけるような出来事があっても、よみがえりであり命であるイエス様という事実を表したかったのです。そしてイエス様は、実際によみがえりの奇跡をなさったのです。「彼らが信じるようになるために」と言って墓に向かって「ラザロよ、出てきなさい」と叫びました。すると、長い布に巻かれた体が生き返り、ラザロは生き返って墓から出たのでした。どんな状況を通る中でも、私達を命に満ち溢れておられる神様と結び付けてくださっているという事実は変わらないと教えられます。

外からのエイキョウではなくて内のエイコウ

 イエス様は信仰についてたびたび、見ずに信じる者は幸いとおっしゃいます。もちろん私達は神様を信じるためのたくさんの良い物が与えられています。たとえば感動する賛美の音色や、信仰者の仲間、そして神様の御言葉、また奇跡を体験する人もいます。しかし、これらのものは取り去られることもあります。神様からの祝福と思っていたものがなくなって、信仰が試されていくのです。
 私は聖霊のバプテスマを受けた後、礼拝の時間がうんと感動するようになりました。「すっごい!」という空に舞い上がるような気持ちでイエス様の臨在の中で毎週賛美していました。しかしある時なぜか感動しなくなってしまったのでした。信仰が無くなってしまったのではないかと思ってイエス様について自分が知っている事柄を確認しましたが、特に変わった点はありませんでした。気持ちだけが急降下していったのです。そんな時に若者伝道で有名な先生が大学生向けのメッセージの中で「若い子たちは燃える火花のような短命な信仰から、芯の通った骨太の信仰に移っていきましょう」とおっしゃって、「火花が散ったのか」と納得しました。今思うと、それは神様のチャレンジだったと思います。感動する音楽を通して信仰に火がついていた私の火が消されても、とどまるべき事実にだけ目を留めているか問われたのです。外のことに影響されるのではなく内の栄光という事実に目を留めるということです。
 始めはいろんな周囲の事柄に助けられて信仰が育まれます。しかし私達の成熟のために神様が取り去ることを、ボヤいたり半分つまずいたりしながら、私達は歩んでいくのではないでしょうか。「こんなことがあったから神はいるよ!」から「こんなことになっちゃったけど、神はいるよ」、そして「神はいるよ」と内の栄光がくっきり描き出されるようになっていきたいです。栄光のイエス様が、私達のうちに聖霊を通して住んでくださっているという事実が、どう頑張っても否定できないほど確かになっていくことを願います。