二人のイエス
説教者:藤井師
2024/3/24 礼拝説教
【テーマ】 十字架はだれのため
【説教題】 「二人のイエス」
【聖書箇所】 マタイ27:15-26
27:15 ところで、総督は祭りのたびに、群衆のため彼らが望む囚人を一人釈放することにしていた。
マタイ27:15-26
27:16 そのころ、バラバ・イエスという、名の知れた囚人が捕らえられていた。
27:17 それで、人々が集まったとき、ピラトは言った。「おまえたちはだれを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか、それともキリストと呼ばれているイエスか。」
27:18 ピラトは、彼らがねたみからイエスを引き渡したことを知っていたのである。
27:19 ピラトが裁判の席に着いているときに、彼の妻が彼のもとに人を遣わして言った。「あの正しい人と関わらないでください。あの人のことで、私は今日、夢でたいへん苦しい目にあいましたから。」
27:20 しかし祭司長たちと長老たちは、バラバの釈放を要求してイエスは殺すよう、群衆を説得した。
27:21 総督は彼らに言った。「おまえたちは二人のうちどちらを釈放してほしいのか。」彼らは言った。「バラバだ。」
27:22 ピラトは彼らに言った。「では、キリストと呼ばれているイエスを私はどのようにしようか。」彼らはみな言った。「十字架につけろ。」
27:23 ピラトは言った。「あの人がどんな悪いことをしたのか。」しかし、彼らはますます激しく叫び続けた。「十字架につけろ。」
27:24 ピラトは、語ることが何の役にも立たず、かえって暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の目の前で手を洗って言った。「この人の血について私には責任がない。おまえたちで始末するがよい。」
27:25 すると、民はみな答えた。「その人の血は私たちや私たちの子どもらの上に。」
27:26 そこでピラトは彼らのためにバラバを釈放し、イエスはむちで打ってから、十字架につけるために引き渡した。
○ 冤罪事件が問題になることがよくあります。それは犯人なのか違うのか難しいから起こったのでしょう。また、愛する人のためにわざと身代わりに犯人になる人もいます。今日のテキストは明らかに裁判長が「罪を認めない」と言ったイエスが死罪になる話です。そのために極悪犯人バラバが救われるという話です。イエスは不当な裁判でバラバの身代わりに殺されることになったのでしょうか?
来週はイースターです。と言うことで、今週は受難週。金曜日が受難日となります。今日はこのイエスの十字架刑が決まった時の話で、バラバが助かるという話です。
バラバ・イエスという囚人
イエスという名前は一般的だった
1.以前の聖書は「バラバ」としか書いていませんでしたが、新改訳2017では「バラバ・イエス」と書かれています。バラバというのは本名ではなくあだ名で、「バル(息子)」と「アバ(父)」という二つの語からできた合成語で、「父の息子」という意味です。
2.彼の本名は「イエス」です。当時、わりと多くの男性に付けられた名前です。イエスはヘブル語で「イェシュア」で、いわゆる「ヨシュア」です。これがギリシャ語で「イエースース」と呼ばれるのです。
極悪犯バラバが
1.バラバ・イエスはルカ23:19やヨハネ18:40、使徒3:14によると強盗であり、暴動と人殺しで投獄されていた人です。その暴動は「おそらくローマの支配からの武力による解放を目指す政治的意図からの企てであり、当時よく知られていたと思われる」(新エッセンシャル聖書辞典p776)とあります。
2.こんな犯罪人バラバがピラトによって釈放が宣言されました。一方犯罪人扱いされ、十字架刑になったのはイエス・キリストです。バラバの本名もイエス、イエス・キリストと同じ名前です。同じ名前でもこの二人には大きな違いがあります。バラバは政治的な解放を目指したようですが、強盗や人殺しもしたようです。しかし、イエス・キリストは、「イェシュア(主は救い)」としての実質を持ったお方で、人々を罪から解放されました。バラバは、名目だけの「イェシュア」に過ぎませんでした。
ピラトの大誤算
「罪無し」と言ってるのに・・・
1.総督ピラトはローマ皇帝からユダヤを治めるように送られた総督で、今回もこの裁判の責任者、裁判長です。彼にとっては何事もなく日が過ぎて、自分の統治力をローマ皇帝に認めて欲しいのです。そんな彼のところに今回のとんでもない大事件が舞い込んできました。イエスの裁判です。ユダヤ人はイエスを殺せと叫びます。ピラトが得た情報からはイエスが悪い人間には思えません。当然「罪無し」として釈放しなくてはなりません。
2.妻からも 27:19 ピラトが裁判の席に着いているときに、彼の妻が彼のもとに人を遣わして言った。「あの正しい人と関わらないでください。あの人のことで、私は今日、夢でたいへん苦しい目にあいましたから。」 と言われていました。イエス・キリストに罪が無いことは誰の目にも明らかですからすぐに「釈放」というピラトの宣言に人々は従うものと思っていたようです。が、おかしなことに群衆は祭司長達のあおりに乗せられてどんどん「殺せ、殺せ」と叫び立てるのでした。
ピラトの諦め
1.ピラトの目にはバラバの釈放を要求されるとは考えられなかったでしょう。ところが民衆の叫びは「イエスを殺せ、バラバを釈放せよ」でした。ピラトがいくら「この人に罪を認めない」(ルカ23:22 しかしピラトは三度目に彼らにこう言った。「あの人がどんな悪いことをしたというのか。あの人には、死に当たる罪は、何も見つかりません。だから私は、懲らしめたうえで、釈放します。」) と言っても人々は聞こうとしません。
2.それどころか 27:22 ピラトは彼らに言った。「では、キリストと呼ばれているイエスを私はどのようにしようか。」彼らはみな言った。「十字架につけろ。」 と、叫び続けました。もうピラトには何もできなくなり、彼らに任せてしまう始末です。
誰を釈放してほしいのか
バラバを釈放してほしい!
1.バラバは政治的犯罪者であり、人殺しです。このバラバを人々は「釈放してほしい」と言うのです。おかしな話ですが、多数決の恐さを見る気がします。神に従い、愛に満ちておられるイエスを殺して、バラバを釈放するように言う人ばかりなのです。
2.人々がバラバの釈放を望んだのは何もバラバを救いたくて言った言葉ではなく、イエスを殺したくて言った言葉です。人の心にはこういう部分があるのではないでしょうか? バラバの悪を認めていてもイエスを殺したいという気持ちが優先してしまう。自我が優先するまさに罪の姿です。
人々を釈放してほしい!
1.イエスはそんな人々を「赦してください」(ルカ23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」) と真に権威のある方に願われたのです。そこにはバラバも含まれていると言えます。イエスがバラバをも釈放して欲しいと願われたのは「バラバを罪から釈放してください」と父なる神に願われたということです。
2. 「父よ。彼らをお赦しください。」 の、彼らには私達も入っています。十字架上で祈られた祈りは私達一人一人のためでした。何の罪から赦すのか、神に対する罪からです。罪を犯した者はその代価として「死」を受けるのです。旧約時代に行われてきた礼拝は生贄をささげることが中心でした。これによって罪が赦されるという神のお達しがあったからです。しかし、完全に赦されるには人間と同等の生贄が必要です。そこでイエスが人となって来て生贄となってくださったのです。
★ 私達は「私をお赦しください」としか言えないような者です。しかし、その心の叫びはイエスによって聞き取っていただき、イエスが身代わりとなって 「父よ。彼らをお赦しください。」 ととりなしてくださるのです。あなたがバラバのようであっても、あるいは「イエスを殺せ」と叫んだ人であっても、イエスは赦しを望まれています。このイエスを受け入れましょう。
Posted by shinnakano
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