娘は救われる
説教者:八木原海師
2024/5/26 礼拝説教
【説教題】「娘は救われる」
【聖 書】ルカ 8:41-42、49-56
8:41 すると見よ、ヤイロという人がやって来た。この人は会堂司であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して、自分の家に来ていただきたいと懇願した。
ルカ 8:41-42、49-56
8:42 彼には十二歳ぐらいの一人娘がいて、死にかけていたのであった。それでイエスが出かけられると、群衆はイエスに押し迫って来た。
8:49 イエスがまだ話しておられるとき、会堂司の家から人が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすことはありません。」
8:50 これを聞いて、イエスは答えられた。「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われます。」
8:51 イエスは家に着いたが、ペテロ、ヨハネ、ヤコブ、そしてその子の父と母のほかは、だれも一緒に入ることをお許しにならなかった。
8:52 人々はみな、少女のために泣き悲しんでいた。しかし、イエスは言われた。「泣かなくてよい。死んだのではなく、眠っているのです。」
8:53 人々は、少女が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。
8:54 しかし、イエスは少女の手を取って叫ばれた。「子よ、起きなさい。」
8:55 すると少女の霊が戻って、少女はただちに起き上がった。それでイエスは、その子に食べ物を与えるように命じられた。
8:56 両親が驚いていると、イエスは、この出来事をだれにも話さないように命じられた。
私達はもう神を知っている
私達はすでに神様を知っています。イエス様を知っていると言っても良いです。ぜひ皆さんとイエス様との出会いを聞かせてほしいと思います。クリスチャンは、誰かが聖書を読むにいたったきっかけや、教会にいくきっかけをお聞きしたいと思っています。背後で必ず神様が導いてくださっているから人は信仰を持つにいたります。どういう風に神が私達を導いたのかという不思議を私達はよく考えたいです。ヤイロとその妻もまた、これはどんな神の導きかと考えたのではないでしょうか。死にかけていた娘が救われる一部始終を今日は見ていきます。ゲラサ人の地での働きを終えたイエス様が、ガリラヤに戻って来ると、群衆はイエス様の帰りを待っていました。ひときわ強い思いでイエス様を待っていた人が、会堂司のヤイロでした。
① なんとかしてほしい
12歳くらいの娘がいて、死にかけているということで、ヤイロという人はなんとかしてほしい気持ちでイエス様の所に来ました。
8:41 すると見よ、ヤイロという人がやって来た。この人は会堂司であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して、自分の家に来ていただきたいと懇願した。
「足元にひれ伏し」「懇願した」とあります。ヤイロはなりふり構わずイエス様に話しかけて、家に来てほしいと伝えたということです。「どんな方法だって良い、どうにかしてほしい」と思う時が、私達にもあります。聖書の神様は、○○のための神ではなくて、人を愛する神ですから、私達がなんとかしてほしい思いを伝える時に神様は聞いて下さいます。ヤイロは家の人達を「イエス様は娘のことをなんとかしてくれる!」と励まして、また自分自身を励まして家を出たはずです。「娘は死にかけている、でも自分にはイエス様のところに行く足がある。あの方のところに行こう」と思ったでしょう。
② 救う神
この聖書箇所の間に長血をわずらった女とのやり取りがあって、再びヤイロの記事に戻ると、残念なことに、娘は亡くなっていたというのです。イエス様は間に合わず、ヤイロの娘の命を救えなかったのです。しかし、ヤイロの娘の与えられた生涯が終わったその時、みんながイエス様はもうできる事がないと思ったその時、神の働きが始まりました。イエス様は、娘は救われると言いました。
8:49 イエスがまだ話しておられるとき、会堂司の家から人が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすことはありません。」
8:50 これを聞いて、イエスは答えられた。「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われます。」
「恐れないで、ただ信じなさい」とあります。神の前にどうあるべきかという、信仰の話をイエス様はしています。人の常識を超えて、救いをもたらそうとする神の前にいることを、ヤイロや家の者がわかっていないのは当然のことではないでしょうか。イエス様は次のように言われ、ある者は笑いました。
8:52(後半) 「泣かなくてよい。死んだのではなく、眠っているのです。」
③ 信仰が生まれた出来事
イエス様の言葉通り、娘は起きます。この出来事は、ヤイロとその妻の信仰にとって大事な出来事です。
8:54 しかし、イエスは少女の手を取って叫ばれた。「子よ、起きなさい。」
8:55(前半) すると少女の霊が戻って、少女はただちに起き上がった。
娘が救われる出来事を通して、ヤイロと妻が、信仰を持って救われたのではないでしょうか。私達にも、信仰が生まれた出来事はありますか?私達はいろんな出来事を通して救う神に出会い、最後にはイエス様の十字架と復活を受け止めて、イエス様を信じます。そのためにイエス様は来られました。
まとめ
イエス様と、ヤイロとの出会いは、なんとかしてほしいというヤイロの一方的な求めから始まりました。一方的であっても、愛なる神様は、その求めを受け止められ、さらに信仰という深い部分をお求めになる方であることを、イエス様を通して見ました。実際、イエス様がガリラヤに戻られ、ヤイロと妻や家の者たちは、娘が救われた出来事を通して自分たちをも救う神という存在を目の当たりにしました。私達も、御言葉から、よりいっそう神について示され、信仰が深められていくことを喜びとして歩ませていただきたいです。
Posted by shinnakano
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