ここは神の家
2022/2/13 礼拝説教
【テーマ】 神が共にいる
【説教題】 「ここは神の家」
【聖書箇所】 創世記28章
28:10 ヤコブはベエル・シェバを出て、ハランへと向かった。
創世記28章
28:11 彼はある場所にたどり着き、そこで一夜を明かすことにした。ちょうど日が沈んだからである。彼はその場所で石を取って枕にし、その場所で横になった。
28:12 すると彼は夢を見た。見よ、一つのはしごが地に立てられていた。その上の端は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしていた。
28:13 そして、見よ、【主】がその上に立って、こう言われた。「わたしは、あなたの父アブラハムの神、イサクの神、【主】である。わたしは、あなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫に与える。
28:14 あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西へ、東へ、北へ、南へと広がり、地のすべての部族はあなたによって、またあなたの子孫によって祝福される。
28:15 見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」
28:16 ヤコブは眠りから覚めて、言った。「まことに【主】はこの場所におられる。それなのに、私はそれを知らなかった。」
28:17 彼は恐れて言った。「この場所は、なんと恐れ多いところだろう。ここは神の家にほかならない。ここは天の門だ。」
28:18 翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを立てて石の柱とし、柱の頭に油を注いだ。
28:19 そしてその場所の名をベテルと呼んだ。その町の名は、もともとはルズであった。
28:20 ヤコブは誓願を立てた。「神が私とともにおられて、私が行くこの旅路を守り、食べるパンと着る衣を下さり、
28:21 無事に父の家に帰らせてくださるなら、【主】は私の神となり、
28:22 石の柱として立てたこの石は神の家となります。私は、すべてあなたが私に下さる物の十分の一を必ずあなたに献げます。」
○ 前回イサクの花嫁探しの話でしたが、一気に進みます。イサクとリベカが結婚して双子の男の子が生まれました。兄はエサウ。弟はヤコブ。この双子は似ていません。二卵性なのでしょう。兄は毛深く、荒い性格。弟はすべすべ肌の穏和な性格らしいです。二人が大きくなり、イサクが死を前にしたとき、イサクはエサウを跡継ぎとして祝福しようとしました。が、エサウを好まない母リベカはなんとかその祝福をヤコブに継がせたいと悪巧みを働かせ、ヤコブに兄の格好をさせ、イサクの願った美味しい肉料理を作ってもたせました。目の見えないイサクはまんまと欺されてヤコブを祝福していしまいます。後になって怒ったエサウはヤコブを殺しかねません。リベカはヤコブを自分の故郷に送り、兄ラバンの元で過ごすようにさせました。そこでハランへと向かう途中の出来事が今日のところです。
ある場所が特別な場所に変わる
ある場所
1.母リベカにかわいがられていたヤコブは一人ハランへと向かいます。その道中は本当に不安でさみしいものだったと思います。まして夜になり宿も無く野宿するに当たっては危険動物との接触も困りものです。兄を欺したことでこんな事になった自分を悔いたかと思います。
2. 彼はある場所にたどり着き、そこで一夜を明かすことにした。ちょうど日が沈んだからである。彼はその場所で石を取って枕にし、その場所で横になった。
と、さみしい夜を迎えました。色々な恐怖を感じながら、ゆっくり休むこともできない状態ですが、疲れ切っていた彼は眠ってしまいました。その場所は特別な場所というわけでもなく、まさに ある場所 でした。
特別な場所
1.そこでヤコブは夢を見ました。それが不思議な夢で、彼のいるところと天とをつなぐはしごが立てられていて、天使がそのはしごを上り下りしているのです。はしごというのは今で言う階段と思ってよいと思います。そこを天使が上り下りしているのです。天につながっているというのはどれくらい高くまで繋がっているのでしょう。それは不思議な夢です。
2.目が覚めたヤコブは まことに【主】はこの場所におられる。
と言いました。彼はその普通の場所が特別な場所と感じられました。私たちもなんてことはない、いつもの場所にいても、特別な場所と感じる事があるのではないでしょうか。それは神の臨在が豊かにあるときです。いつものように礼拝していても、その日は特に神の臨在を感じるということがあったりして、特別な日、特別な場所となるのです。
ルズがベテルに変わる
ベテル・神の家
1.ヤコブはその ある場所 を特別な場所と認識し、「ルズ」と呼ばれていたその場所を「ベテル」と呼びました。ベテルとは「神の家」という意味です。キリスト教会の名前で「〇〇ベテル教会」と名付けられた教会があります。神のおられるところ、神のお住まいになっているところとヤコブは考えたのです。
2.私たちもただ集まるだけなら「ある場所」に過ぎないのです。たとえそれが美しい教会堂であったとしても、神がお住まいになっていない場所ならそれは「ある場所」なのです。しかし、神をお迎えしているなら、そこは「ベテル・神の家」なのです。私たちの教会もベテルです。皆さんの家もベテルなのです。
ベテル・祝福の地
1.その場所でヤコブは主の声を聞きました。 わたしは、あなたの父アブラハムの神、イサクの神、【主】である。わたしは、あなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫に与える。
と。ヤコブが横たわっているその地を祝福の地としてヤコブの子孫に与えると約束してくださったのです。この時点の彼はそんなすばらしい約束をいただけるような信仰者でしょうか? 違います。
2.神の家に住むということはそれ自体がすでに祝福です。神は全世界を人間のためにお造りになりました。この地上で領地を広くし、豊かな産物を得ることは神からの祝福です。しかし、この地上の祝福をはるかに超える天の祝福を、ヤコブもまたすべての人々も知らなければならなかったのです。
不信仰者が信仰者に変わる
未熟者のヤコブから
1.神からすばらしい祝福の約束をいただいた後、彼は誓願を立てました。 神が私とともにおられて、私が行くこの旅路を守り、食べるパンと着る衣を下さり、無事に父の家に帰らせてくださるなら、【主】は私の神となり、石の柱として立てたこの石は神の家となります。私は、すべてあなたが私に下さる物の十分の一を必ずあなたに献げます。
と。十分の一を献げると、献身的なことも言っていますが、彼の祈りを見ると ・・・くださるなら、・・・この石は神の家となります・・・献げます
と条件付きの祈りではありませんか。要するに信仰が未熟なのです。
2.信仰が未熟なのは誰もがそうです。そこを通ります。そして成熟へと向かうのです。そのために試練もあるのです。後に父親となったヤコブを見ると決して立派な父親とは思えません。しかし、神の言葉を信じ続け、この誓願を果たしてきたことを思うと彼は長い年月かけて信仰を成長させていただいたのでしょう。そして、召されたときに彼は地上のベテルではない、真のベテルを味わったのです。
私たちも信仰者に変わる
1.私たちはどのようにしたら未熟な信仰から立派な信仰へと変えられるのでしょうか。まず、言っておくべきことはこの地上にある限りは決して立派と言える信仰には辿り着かないということです。しかし、神は私たちが聖化されることを望んでおられますから、あらゆる努力をしてきよめられるべきなのです。
2.救われるために努力は要りませんが、救われた者は努力が必要です。それは恵みから恵みへと進む必要があるからです。私たちが ある場所 に留まり続けると信仰は成長しません。神の宮殿に入れていただいても、次々扉を開けていくことで次の恵みの部屋を見ることができるからです。
★ 私たちの ある場所 はすでにベテルとなっているでしょうか? 私たちのいるところが神の家になるのは神の臨在があることです。私たちも ある場所 からベテルに移り住んだ信仰者と成長しているでしょうか。
Posted by shinnakano
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