良い知らせを伝える人
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礼拝メッセージ

2022.2.20 礼拝説教
テーマ:福音宣教
説教題:「良い知らせを伝える人」
テキスト:ローマ10:11~17 

10:11 聖書はこう言っています。「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」
10:12 ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。同じ主がすべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになるからです。
10:13 「主の御名を呼び求める者はみな救われる」のです。
10:14 しかし、信じたことのない方を、どのようにして呼び求めるのでしょうか。聞いたことのない方を、どのようにして信じるのでしょうか。宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。
10:15 遣わされることがなければ、どのようにして宣べ伝えるのでしょうか。「なんと美しいことか、良い知らせを伝える人たちの足は」と書いてあるようにです。
10:16 しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。「主よ。私たちが聞いたことを、だれが信じたか」とイザヤは言っています。
10:17 ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。

【新改訳2017】
ローマ人への手紙〉

「すべての人の主」を呼び求める

今回のテキストである10章は、イスラエル民族の不信仰を指摘している箇所である。彼らは、信仰ではなく律法を守り行うことを重んじた。しかし、神はキリストを信じるすべての者を救われる。そこにはもはや、ユダヤ人やギリシャ人の区別はない。同じ唯一の主なるキリストが、すべての民族と国民の主であられるからだ。また、主なるキリストは「呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになる」方である。では、「呼び求める」とは「神様!主よ!」と呼ぶことなのだろうか。もちろん、そのような意味も含まれるが、具体的には日常の生活において礼拝をささげ、キリストとともに生きることをあらわしている。10:13は、「ヨエル2:32しかし、【主】の御名を呼び求める者はみな救われる。」の引用であり、ペテロも使徒2:21で用いている。「主を呼び求める」とは、初代教会において共通して使われていた信仰の勧めのことばと思われる。

2:21 しかし、主の御名を呼び求める者はみな救われる。』2:22 イスラエルの皆さん、これらのことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと不思議としるしを行い、それによって、あなたがたにこの方を証しされました。それは、あなたがた自身がご承知のことです。2:23 神が定めた計画と神の予知によって引き渡されたこのイエスを、あなたがたは律法を持たない人々の手によって十字架につけて殺したのです。2:24 しかし神は、イエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、あり得なかったからです。2:25 ダビデは、この方について次のように言っています。『私はいつも、主を前にしています。主が私の右におられるので、私は揺るがされることはありません。』

使徒2:21-25


このようにペテロはイスラエルの人々に語りかけ、主の御名を呼び求めることの重要さと、揺るぎないキリストの救いの業を伝えている。

信仰の始まり

しかし、信じるにも呼び求めるにも、聞いたことがなければそれは不可能である。まず、宣べ伝える者が必要となる。そして、宣べ伝えるために神が遣わしてくださるのだ。

遣わされることがなければ、どのようにして宣べ伝えるのでしょうか。「なんと美しいことか、良い知らせを伝える人たちの足は」と書いてあるようにです。

使途10:15

このイザヤ書のことばは、イザヤ52:7の引用である。

52:7 良い知らせを伝える人の足は、山々の上にあって、なんと美しいことか。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神は王であられる」とシオンに言う人の足は。

イザヤ52:7

ここでの「良い知らせ」とは本来「バビロン捕囚からの解放」であったが、パウロは「イエス・キリストの福音(good news、良い知らせ)」として引用している。そこには、この良い知らせをもたらしてくれた者に対しての感謝と好意が表れている。
では、イスラエルの人々が信じなかったのは、宣べ伝える者がいなかったからなのだろうか。そうではなくてすでに伝えられていた。が、彼らは信じなかったのである。彼らは、律法を守り行うことに熱心であるあまり、真の信仰を忘れ他人をさばいてばかりいた。すでにクリスチャンである私たちにもその危険性がある。教会という人間の集団の中で、「あの人の言動はクリスチャンとしてふさわしくない」とか「なぜ、自分の境遇は祝福されず、他の人は恵まれているのか」などと批判したり、妬んだりすることはないだろうか。私たちは、主の御名を呼び求めたゆえに救われたことを忘れてはならない。常に神様を崇め、主と共に生きる者としてふさわしい生活をしよう。

キリストについてのことば

これまで見てきたように、信仰は聞くという行為から始まるが、では何を聞けばよいのか。それは、「キリストについてのことば」(10:17)を聞くのであり、「キリストについて語られている福音のメッセージ」を聞くということなのである。福音とは、何か。それはⅠコリント15章に記されている。

15:1 兄弟たち。私があなたがたに宣べ伝えた福音を、改めて知らせます。あなたがたはその福音を受け入れ、その福音によって立っているのです。15:2 私がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがたがしっかり覚えているなら、この福音によって救われます。そうでなければ、あなたがたが信じたことは無駄になってしまいます。15:3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、15:4 また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、15:5 また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。

Ⅰコリント15章

このように、イエス・キリストは、私たちの罪のために十字架にかかられ、死なれた。しかし、三日後によみがえられ死に勝利された。そして、信じる私たちに永遠の命を与えてくださるのである。私たちはこの福音を宣べ伝えていかなくてはならない。

結び

私たちが今ここにいるのは、誰かが福音を伝えてくれたからである。その方法は様々あるだろう。直接語ることもできるし、手紙やメールなども利用できる。あるいは、トラクト配布も一つの手段だろう。
私たちは、あらゆる機会を用いて福音を宣べ伝え、良い知らせを伝える者となろう。