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主を信じることで義と認められる

主を信じることで義と認められる

礼拝メッセージ

2022/1/16 礼拝説教
【テーマ】  信仰による義
【説教題】 「主を信じることで義と認められる」
【聖書箇所】 創世記15:1-6

15:1 これらの出来事の後、【主】のことばが幻のうちにアブラムに臨んだ。「アブラムよ、恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたへの報いは非常に大きい。」
15:2 アブラムは言った。「【神】、主よ、あなたは私に何を下さるのですか。私は子がないままで死のうとしています。私の家の相続人は、ダマスコのエリエゼルなのでしょうか。」
15:3 さらに、アブラムは言った。「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらなかったので、私の家のしもべが私の跡取りになるでしょう。」
15:4 すると見よ、【主】のことばが彼に臨んだ。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出てくる者が、あなたの跡を継がなければならない。」
15:5 そして主は、彼を外に連れ出して言われた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。」さらに言われた。「あなたの子孫は、このようになる。」
15:6 アブラムは【主】を信じた。それで、それが彼の義と認められた。

創世記15:1-6

○ 「イエス・キリストを信じるだけで救われる」というのは簡単なことなのですが、実はどうしてそうなのかと理屈を問われるとそれがなかなか難しい問題となるのです。知的になった現代人は「信じる」ということでは納得できず、「理解できる」を求めているのかと思います。しかし、今日の話では アブラムは【主】を信じた。それで、それが彼の義と認められた。 とあるのです。アブラムはどのように信じたのでしょうか。

主を信じることで義と認められる

アブラムは信じた

アブラムの考えた跡取り

    1.当時の人々にとって「跡取り」は大事な問題でした。神はアブラムに跡取りを与えると言われたのです。しかもその跡取りから空の星のように増え広がると言われました。しかし、アブラムは3節で あなたが子孫を私に下さらなかった と言っています。かなりのおじいさんになってしまったアブラム。未だに神は子どもをくださらないので、もう自分とサライから子どもは望めないと思っていました。

    2.となると、神は他の方法で子孫をくださるのかと考えるのは当然でしょう。アブラムは 私の家のしもべが私の跡取りになるでしょう と言いましたが、それは当時、直接の相続人がいない場合、傍系の親族または奴隷の中からでも相続人が選ばれることが法的に認められていたからでしょう。

神の言う跡取りを信じる

    1.しかし、神は 15:4 その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出てくる者が、あなたの跡を継がなければならない。 と言われたのです。アブラムから生まれることをどこまでも言われました。そして、アブラムはその言葉を信じました。とても理解できたと思いません。神が言われたので信じたのです。

    2.アブラムは自分なりに子どもを得る方法を考えました。それは常識的に考えてこんな年寄りに子どもが生まれるはずがないという、ごく普通の考えからです。しかし、神はその常識をひっくり返して、アブラムとサライから生まれると言われました。これを信じたのです。

マリアは信じた

神の言葉を信じるマリア

    1.クリスマスの時のお話でもマリアは自分から救い主イエス・キリストが誕生するということを理解できたのでしょうか? しかし、彼女は信じました。ヨセフはなかなかマリアの言葉が信じられなかったのです。しかし、神から言われて信じました。彼等も信じて救われているのです。

    2.「信じる」というのはこのように「理解」という私たちの頭の領域を超えるものです。かといって、やみくもに信じているのではありません。「聖書」という根拠に基づいています。

神の声を聞き分ける

    1.聖書の無かったアブラムの時代にはそれこそ神が人の耳なのか、心になのか語りかけてくださったのです。アブラムはその声を神の声と聞き分けることができたのです。どうして聞き分けることができたのかと言われると答えるのは難しいですね。信仰によってわかるのです。

    2.マリアの前に現れたのは御使いガブリエルです。「天使が現れたら誰だって信じるよ」と言う人がいますが、果たしてそうなのでしょうか? 聖画に出てくるような羽のある天使ならわかりやすいのかも知れませんが、例えば創世記19章に出てくる御使いをロトたちは見ました。また、創世記32:22~のヤコブと格闘した人?は天使と考えられています。見たときに天使だとすぐにはわからないのです。信仰と聖霊によってわかる世界があるのです。

私は信じる

昔からクリスチャンは信じてきた

    1.使徒信条を見てみましょう。 

われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず。われはそのひとり子、われらの主イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死にたる者とをさばきたまわん。われは聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。アーメン 

使徒信条

ここに「信ず」「信ず」と出てきます。これを「理解した」と置き換えることは可能ですか? できません。

    2.私たちの頭脳をはるかに超えた世界なのです。でも、私たちは「信ず」と言って問題視しません。なぜか? 本当に神がおられてその神は愛のお方で、イエス・キリストは目には見えなくても本当に私たちのそばにいてくださるお方だからです。私たちにはそのことが聖書を通して教えられています。

信じるために

    1.信じるためにもちろんいくらかの知識を必要とします。マリアも天使と話し合っていくらかの知識を得ています。しかし、おわかりのように彼女は理解できたから信じたのではないのです。理解を超えているけれど神が言われるから信じているのです。

    2.私たちも神の声を聞き分ける能力があるといいのでしょうけれど、今はまず聖書が神の声ですから、誰もが聞くことができると言えます。ただ、自分勝手な解釈をしてしまう人も多いのでそこが問題でしょう。 Ⅱペテロ1:20 ただし、聖書のどんな預言も勝手に解釈するものではないことを、まず心得ておきなさい。 とあるとおりです。

    3.聖書を読み解く力が必要なのでは無いでしょうか? そのためには何といっても聖書を読むことですし、見えない神と祈りによって交わりを深めることです。聖霊が働かれてこそ私たちは信じる事ができるのです。

● 私がイエス・キリストを救い主と信じた日を振り返ると、「神なんているわけがない」と言い張っていた私がスッと信じることができました。理解できたから信じたのではありません。もし理解できたから信じたというなら相当聖書を勉強しなければならなかったと思います。しかし、友達に「お前どうしてクリスチャンになんかなったんだよ?」と問われても、どう答えていいのか説明には困りました。何しろ、理解したからではないのです。信じたのです。まさに聖霊が働いてくださったとしかいいようがありません。

★ 私たちも十分な知識が無くても、主を信じるだけで救われます。義と認められるのです。 アブラムは【主】を信じた。それで、それが彼の義と認められた。 と同じく、あなたがイエス・キリストを信じる。それがあなたを義と認めるのです。