第十戒 むさぼるな

全てに感謝しよう

礼拝メッセージ

2022/7/31 礼拝説教
【テーマ】  第十戒 むさぼるな
【説教題】 「全てに感謝しよう」
【聖書箇所】 出エジプト記20:17

あなたの隣人の家を欲してはならない。あなたの隣人の妻、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを欲してはならない。」

出エジプト 20:17

○ 7月も今日で終わりますね。このコロナの間に色々なことが変化してしまいました。オンライン礼拝に長けた教会もあれば、そういう機器を使いこなせなくて、礼拝そのものを休むしか無かった教会。借家であったがために家賃が支払えず会堂がなくなってしまった教会もあります。牧師も辞めてしまって行き場を失った信徒もいます。そんな中、しっかり会堂もあり、オンライン礼拝もバッチリという教会を見て「あの教会はいいなあ」と羨む牧師や信徒がたくさんいたのではないでしょうか。今日の御言葉はそういうことも考えさせられるかと思います。

欲しがる心理

隣の芝生は青い

    1.よく言われることわざに「隣の芝生は青い」というのがありますが、何かしら隣の家は良く見えるのです。そうならない人は幸せです。今日の御言葉、十戒の第10番目をもう一度見てください。 あなたの隣人の家を欲してはならない。あなたの隣人の妻、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを欲してはならない。 と、どうも隣の家は全部よく見えてしまうみたいです。

    2.なぜ、 隣人の妻 だけで「隣人の夫」が無いのでしょうか? それは十戒がイスラエルの成人男子に語られた言葉だからなのです。当時は女・子どもが数えられない社会でした。ですから、妻も所有物として挙げられているのです。今の日本とは違うので、同じように考えるわけにはいかないことに気をつけて読まねばなりません。

他人のものを妬む心理

    1.人は自分と他人、また自分のものと他人のものを比較しやすいものです。ケーキを均等に切ってお皿に載せても自分のケーキはなんとなく隣の人のケーキより小さく見えてしまうものなのです。親は、我が子とよその子をすぐ見比べてしまうものです。そして「どうしてうちの子は・・・」と言うのです。私も小学生の時はよく母親に言われました。「あんたも〇〇君のように手を上げて答えなさいよ!」と。だから参観日は嫌いでした。また、子どもは友達のもっているゲーム機やスマホを見て欲しくなります。そして「みんな持ってる」と言ってねだり、「○○君の家はいいなあ。買ってもらえるもん」と言うのです。

    2.教会の場合もあるかも知れません。「教会に来たのに癒されない。問題が解決しない。△△宗教だと癒しがあるらしい。◇◇教では不登校の子どもが治ったという」などと比較して他の宗教に目が行く人もいます。

むさぼりやすい人間

偶像礼拝にまで繋がるむさぼり

    1.イスラエル人はあの紅海を割ってその海底にできた道を歩かせていただき、エジプトの軍隊が海の中に滅んだ時は主なる神をほめたたえたのですが、食べ物、水に困ると文句を言い、挙げ句の果ては「エジプトが良かった」と言い出しました。そして、エジプトで見てきた偶像「金の子牛象」を造ったのです。神さえも隣人のものがよく見えたということです。

    2. コロサイ3:5ですから、地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。 とあるように貪欲は偶像礼拝なのです。欲が増していくと当然「欲しい、欲しい」となり、お金が一番大事なものとなり、お金のためなら何でもするということになり、お金が偶像になるのです。貪欲は偶像礼拝です。

自分の思いを優先させるのがむさぼり

    1.アダムとエバはなぜあの禁断の木の実を食べたのでしょうか?食べるには事欠かないように十分木の実はありました。しかし、あの「善悪を知る知識の木」から食べたのはサタンにそそのかされたからですが、それは神と同じようになりたいと思ったからです。天使が悪魔と化したときと同じ、神への妬みなのです。だからここに滅びに至る罪を見出すのです。

    2.ユダはなぜイエスを銀貨30枚で売り飛ばしたのでしょうか? 最初はイエスこそイスラエルの王になる方で、自分はその王国の大臣になるとでも思っていたのでしょう。しかし、ユダの思っているようにイエスが活動されないと、「こんな人に用は無い」と、奴隷の値段で売り飛ばしました。彼もお金に目が行った人です。自分の思い、お金が偶像化してむさぼりの罪となっています。

では、どう生きるべきか

欲しがってはならない

    1.欲しいと思うだけなら問題無いと思う人もいらっしゃるでしょう。しかし、十戒は 欲してはならない と言っています。隣人の持ち物、生活が良くて、「隣はいいなあ」と思うだけなら、実害は無いのではないでしょうか? しかし、その思いが高じて実力行使に出てしまったら大変なことになります。盗みになり、姦淫になってしまうのです。もっとその気持ちが高じると殺人にもなりかねません。第六~八戒に抵触してしまいます。

    2.この戒めは 欲してはならない ですから、実力行使に出なくても思うだけでも問題だということがわかります。それは前にも語りましたイエスの言葉 マタイ5:28しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。 が、教えているとおりです。

神の恵みを思い、感謝する

    1.では、欲しいという気持ちを無くすように修業を積むべきなのでしょうか? パウロは ピリピ4:11乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。 と言っています。これは修業の成果でしょうか?

    2.またパウロはテモテにこう書き送っています。 Ⅰテモテ 6:8衣食があれば、それで満足すべきです。 また、ヘブル書にはこうもあります。 ヘブル13:5金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足しなさい。主ご自身が「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言われたからです。 と。

    3.神に信頼する、神に感謝する、神の恵みを覚える生き方こそが大事なのではないでしょうか。私たちの目を人から、ものから、お金から神に向けるべきなのです。

★ 何を第一にするかで人生は変わります。世のもの、世の人を見て比較し、世の良きもの、お金に目が行っているとそれらが偶像となり、それに仕えることになります。神が与えてくださったもの全てに感謝する生活を始めませんか。イエスだけを見上げませんか。イエス・キリスト以外に神はあってはならないのですから。